日記 2024.1.27

5連勤の4日目。朝から夕方まで働く。
夜、演出家の小林さんとスペースでおしゃべりをする予定があり、今日の宿題が職場演劇や地域演劇のことだったため、数日前から須川渡さんの「日本の戦後のコミュニティシアター」という本を読み進めていた。自分も岩手の西和賀町に行ったことがあるので、半分ほどを割いて書かれている劇団ぶどう座のことは興味深く、とても面白く読んだ。まだ7割くらいで読み終わっていないけれど、飽きずに、疲れずにサクサクと読めている。

最近、演劇に興味がある。自分自身は、オーソドックスな劇場演劇ではないものへの関心からこれまで10年ほど、地域協働の企画や参加型などを試してきたけれど、それは最新のものをつくるというよりもプリミティブな方向から演劇を実践していきたかったからだと思っていて。で、そのなかでは演劇を「どうやるか」以上に「なぜやるか」をずっと考えていた。なんのために演劇をやるのか、その理由を演劇そのものや自分自身ではなく、社会的な文脈に求めて行った結果、まちづくりを勉強していった。「まちをよくしていく」「くらしをよりよくする」そのことと結びついた演劇なら、何か創作活動の出口がある感覚というか。自分のためにつくることに自信がなかったんだろうとも思う。一方で、何かの役に立つ演劇とか、手段としての演劇にも違和感があり、「手法といいつつも、演劇をツールに矮小化することもどうなんだ?」という自己矛盾を抱えて、いったりきたりをしていた。
いろいろな機会があって、そういう自己矛盾のなかで拾い上げたアイディアを次々試すことができた。やってみた結果、可能性を感じると同時に、気がついたら関心が意味の追求から、つくりかたや、王道に向かってきていた。本当だったら10年前に勉強しきっておくべきことを今更知りたいと思って、それで演出論を読んだり、スペースでも戦後の新劇の運動や作品、リアリズムってなんだっけ?ということをさらっている。そうした演劇の、あるいは演劇史のメインストリートから離れ続ける10年だったのに。

しかし、演出論が、演劇史がいまとても面白い。最近読んだイギリスの演出家・ケイティミッチェルの本では、演出家がどういった作業を積み重ねて作品をつくっていくのかが書かれていて、それは裏から見れば演劇作品のメカニズムを説く本でもあった。ケイティさんやその周囲の俳優がいかに緻密な作業をしているのか。それはひらめきとか独自の解釈というよりも戯曲を読み込み、問いを立て、意味を積み重ねていく方法論で、演劇を組み立てることが人間のふるまいをときほぐして、意図をもって再構成することなんだと改めて理解した。時代とか、意味とかを追う中での思想としての演出論ではなく、あくまでそれは作業の積み重ねなんだという演出論を通すと、演劇はこれまで以上に面白い。演劇自体の解像度が上がると、それの応用も豊かになるんだと思う。きっとこれからも演劇というフレームワークをもって少し違う作品を組み立てる仕事を続けるけれど、柱となる「演劇」を強化することはいまとても大事だ。

演劇史も面白い。いまからすると古い作品も、生まれた当時は新作で、それは時代の影響も受けているし、与えてもいる。これまでどうも興味をもてなかったけれど、須川さんの生き生きとした文章から、新劇の作家たちも悩み、社会と関わりながら仕事をしていたんだと思った。作品名のリストとあらすじを見てわかったつもりにならないことは大事だ。解像度を上げてみていくと、地形が見えてきて、そこでやっと(読者として)どこなら歩けそうかを考えられる。宇宙から地球を見ていても山登りやまちあるきの計画は立てられない。

戯曲を書くことや、戯曲を上演することにいまとても関心がある。演劇が標準装備しているものを丁寧に積み上げることで何ができるのか。

スペースでは、そんなことを思いながら読んでわかった職場演劇や自立演劇のこと、農村演劇のことを話したり、コミュニティシアターという用語がどうやら複数の文脈に分かれていること、1968以降の演劇センター運動、檜枝岐村のことなどを話した。翌日も早いのに0:30までやっていた。

夕食はスペース開始前にラーメンを食べた。

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