日記 2023.9.22

務めがない日だったので、個人の仕事を進める。原稿を書いたり、週明けのラジオ収録の段取りを考えたりしていたのだと思う。この日に進めないともう時間がないと思いつつ、やりたかったことの半分くらいしかできなかったような気がする。

夜は墨田区の集まりへ。昨年参加したアートプロジェクトの寄り合いに、位置参加者として参加した。本当はまちあるきをしたあとに懇親会だったのだけど少し遅れていったらうまく合流できず結局懇親会からの参加になった。

久しぶりになんというか気持ちのよい時間だった。ほくほくするような。なぜだろう。相手が自分に対して関心を寄せてくれて、評価してくれて、共通の関心もあって「お久しぶりです」と声もかけてもらえる。アートプロジェクトというものをアウトプットや責任で捉えつつある身にとって素朴に本来の関心やその自由さに立ち戻れるようなかんじもする。「じっくり話したい」といってもらえることはうれしい。自分に価値があると思える。

そうした対話のなかでは相手ありきのうれしさだけでなく、言葉にならない興味にことばが与えられる感覚もある。それはうれしいしそういう場やつながりを大事にしておきたい。
という一方で、他者への欲望というものにも敏感でありたい。

わたしはだれかと意気投合するとすぐに何かいっしょにやりたくなる。「何を」よりもその人との共感や、その人への期待を強く持ってしまうのだと思う。稽古初日の高揚感にも似ている。その喜びは肯定しつつもそれはある種の欲望で、支配欲や見栄がないとは言い切れない。それは後から振り返るときやはりあまりいい経験として振り返れないし、そもそもリスペクトに欠けているようにも思える。
なにを、どのように協働するのか、対話するのか。その基本的な文法や理解を深めないと怖くて協働はできない。

分かち合いのうれしさと、探求や創作、研究といった前に推し進めていく運動とを切り離したほうがよいのだろうとも思う。どちらも大事なことだ。だけど必要になる場と、関わり方が違う。
本当はその違いを自覚したうえで軽やかに行ったり来たりできるようになりたい。ある対話の手ごたえから展示まで持って行ったり、パフォーマンスをしたり。そのためには「アウトプットする」ことへの熟慮が日頃から必要だ。身体、そこで生まれる時間や空間、そのことへの語彙が豊富であってはじめて気軽な選択肢として浮上する。
「このことについて考えたい」と思っているわたしの関心や身体、経緯を因数分解していく必要がある。そこには自然とこれまでの思考や実践が刻み込まれているはずだから。ある種の必然性を持ってすれば,インプットとアウトプット、他者との協働も恐い物ではなくなるような気がする。単に協働のハウツーを読むだけでも多分なにも解決しない。

その意味ではもっと気軽にいろんなひととやっていったほうがいいのかもしれない。リスペクトや事業化のコツはおさえつつ。一大事にしてしまうことでかえって首をしめるようなところもある。

そんなことを考えながら帰宅した。

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