日記 2023.9.18

午前中はデスクワークや洗濯など。
お昼を食べて、神保町に行く。受講しているPARAの講義へ。外の参加者の発表を聞く日だった。

やっぱりどこか体の芯が疲れている。好奇心や意欲に体が動かされるような感覚がなく、どんよりとして、何かを感じにくくなっている。暑さもあると思うけれど。
そんななかでもそれぞれの発表を聞いていると、頭が動いていく感覚があった。誰かがものを考えたり、手を動かす所作から受ける清々しい刺激。まだお互いのことを全然知らず、専門性も(たぶん)バラバラというのがまた良いのかもしれない。同業者の業界話にもならないし、競い合うような関係でもない。

マリンバ奏者のNさんと話したことが、なんだかとても引っかかっている。「安心できる場所」について。最近のわたしは安心や安全がおそらくゆらいでいる。だけど、じゃあどこにいれば回復をするのか。ここだけは安心と思える場所などあるのか。また、その安心は男性性と無関係といえるか否か。わたしが居心地良いことで誰かの心地を阻害してないか。と、ごく自然に「安心」と「加害性」が一本の線で繋がっていく感覚があった。なにがわたしの身体にとっての「安心」なのかを考えることと同じくらい、「居心地」を両面で見ていくことが必要に思えた。居心地がいい場/わるい場。
そのうえで、小さな場をつくったり、流れを変える小石になっていくことが大事なのかもしれない。それは大上段に構えて場をつくるのではなく、もっと柔らかくて、ひととひとのあいだにただよう何かを大事に、優先した何かだ、きっと。
わたしは、だれかと一緒になにかすることに常に興味がある。いろいろな人と出会いたいし、仲間になりたいし、共同作業をしたい。だけど、それはよく考えないといけないということを知っている。大人が何かをいっしょにやるときには仕事やお金を無視できないし、順番やタイミング、あとはそこで生まれうるパワーのことも。「男性」であるわたしにはどういうふるまいが可能なのか、誰かをいっしょに何かしたいと思う度に疑念が生じる。ちょっと待った、と。

だけど、「居心地のよさ/悪さ」と「小ささ・やわらかさ」から見ていけば、少し前に進めるような気もした。それはなんとも言葉にならないけど、けっこう大きな気づきだったような気もする。

上記の話と、「公園をつくる」こともなんかつながっていくような気がする。だれかの居心地のよさとだれかの居心地の悪さが拮抗しうる場としての公園・・・?
まだよくわからないけれど、強くて硬いものとしての公園ではなく、弱くてもろいものとしての公園を考えていくのも、面白いことかもしれない。

Nさんと話したときにすっとやってきた実感や気づき、この正体についてもう少し考えたい。Nさんとももう一度お話したい。

夕方は荻窪に行って、かねてから参加している研究会へ。東南アジアでのワークショップ体験の話を聞く。神保町での話と比べると、男性のトークラウンジ、というかんじがした。上空から獲物をねらう鷹の目線というのだろうか。でもそれはそれでよい時間だった。
夜は荻窪の台湾料理屋さんで、おしゃべりしながら食べる。小さなお店で、オーダーしてから出てくるまでに45分くらいかかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?