日記 2023.9.17

日曜日。朝は早めに起きて豊島区のゴミ拾いの活動に行こうと思っていたが、全く起きられなかった。今の勤め先になってから早起きは苦ではなくなったのだけど、強い意志がないときはなかなか起きられない。

軽くご飯を食べたりLINEを返したりして、谷中に出かける。5年前に参加したレクチャープログラムの同窓会だった。日暮里からお店までの道、真夏と思わせる日差しで、こんな気候のまちで一体何をどうしろというんだという思いを強める。

久しぶりの再会はどこか緊張感があった、個人的に。その緊張感は、相手ではなくうちから来るものだったような気がする。5年前、この集まりは「東京」について考えていた。いま、自分にとって東京は問いになっているだろうか。日々をどうにかやりくりすることに追われて、問いを持ちにくくなっている日々。そうした状況だけでなく、いつの間にかオリンピックも終わったこのまちがいま、自分にとってテーマにならなくなっているのかもしれない。つまり、5年前と同じように、東京についてのことばがスラスラ出てこない。東京そのものもこの5年で何かが変わってきているのかもしれない。
そうした自身と、まちの変化を、ポツポツと話すような場だった。雄弁にはなれない。緊張感はそこから来ていた気がする。わたしはいま、問いを持っているか?と。

だけどそのポツポツさは、大事なことだった気がする。話すことと同じくらい言葉にならないということを味わう、その時間が。そのなかで語られたことばには、少しだけ厚みがあるように感じられた。

いま、考えていることを、5年前のわたしを知っているひとと話す。そんななかで思い出せたのは、忘れかけていたいくつかの関心だった。このプログラムでは、迷ったときに立ち戻れるものとしてエッセイを書いた。そのエッセイだけでなく、集まり自体が立ち戻れる場になっていたのかもしれない。
「時間」と「空間」、具体的には超長い時間と概念としての公園。このことを、ここ数年追っていたはずだった。疲れていて見失いかけていた。公園、計画、百年や一千年というときの射程。こうしたことにもう一度立ち戻りたい。5年前考えていたことをもう一度手元に手繰り寄せる、この思い出すという過程はブラッシュアップでもある気がする。今改めて、数年を経てそれが意味があると思えること、そこにはわたし自身の数年間と変化が上乗せされている。社会は2018や2019でもなく、コロナ禍でもなく、2023年の9月になっている。だけど、確実にそうした時期を通過した身体たちがいまここにはいる。立ち戻るではなく、2023年に再度召喚するといったかたちで。やりたいテーマがこのあたりにはありそうだ。

具体的には、「公園をつくる」ということ。公の園と書いて公園。明治期に輸入された概念であること、江戸から明治への変化とはなんだったのか、現在の法的な位置付けなども参照しながら、未来の公園について考えてみたい。ハードウェアの面からも、使われ方からも。公共空間は、百年や二百年という時間を有している。超長い時間のなかで、公園を考えること、舞台芸術やアートと空間計画論を混ぜ合わせた先で考えられることがあると思う。それはまちを考えることにもなり、都市の安全地帯を考えることにもなると思う。
そんなことを思い出したり、再度意味を与える場になった。

喫茶店でコーヒーを飲んで解散。
その後、六本木にいってパートナーと合流し、森美術館で「ワールド・クラスルーム」を見る。近くで坦々麺を食べて帰った。

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