日記 2024.5.12

朝9時からミーティングだったので早めに起きて、コンビニでホットドッグとレッドブルを買って、朝ごはんとする。昨日や一昨日と比べると爽やかに起きられた。なんでだろうか。

9時から13時半くらいまで、クリエーションに関していろいろと話す。一昨日の日記にも書いた水中と地上の感覚がここでも出てきた。水中は動きが鈍いだけでなく、視界もぼやける。イメージが連鎖するものの感度は鈍る。うーむ。

午後はパートナーと外に出て、熱帯魚屋さんを梯子する。いま空いている水槽に入れるとしたら何がいいかという検討のため。池袋の西武の屋上にある品揃えのいいペットショップが来月いっぱいで閉店すると貼ってあった。いいお店だったのに、悲しい。

そのまま外で仕事の打ち合わせ電話を済ませ、母の日のプレゼントを購入。先日借りた家の鍵を返すついでに母に会いにいく。スイカを一切れ食べて帰宅。

いまはこうして1週間分の日記を書いている。書かなきゃと思ったのは一昨日も少し書いた「水中」の話題だった。何が見えていて何が見えていない(いなかった)のか、それを丁寧に、執拗なまでに丁寧に振り返っておきたい。でないと同じジレンマをこれからも感じてしまいそうだから。

アイディアを出すために何が興味深いか、何に発展可能性がありそうかを拾い上げるとき、自分の意識のなかにダイブをする感覚がある。そこでは物事の輪郭はすこしぼやけていて、だから混ぜ合わせたり重ねたり広げたりということが想像上、できる。そこで感じられた手がかりはしかし、地上に持ち帰ったときには錯覚だったかのように立ち消えることがある。水中のゆらゆらとした視界のなかではいけると思ったものでも、それはあくまで水中に限られた視界だ。地上では、地上のやりかたを別途組み立てないといけない。だけど水中の視界を地上に再現するのは非常に難しい。水中では無効化される重さのようなものが地上では働くし、ものを動かすときには一層のエネルギーが必要になる。演劇に置き換えると、他者、他者といっしょにやるということは自分のイメージだけではできないよ、という話でもある。他者とやるときの勘所は地上のコツとして、それはそれで習得するしかない。問題は水中と地上の行き来の仕方だ。

そもそも、水中で見るということがよくないのかもしれない。どこまでも地上でものを見るようにすればそこにはじめから重さが宿るんじゃないか。アイレベル、むしろ空から?

水中での時間は個人にとっては必要だけど、地上での共同作業の話をするとわかっているときは地上の準備が必要で、その切り替え、棲み分けをもう少し意識していきたい。なにかを考える、準備するというと水中に潜る傾向がある。水中にはひとりの時間に潜っておいて、準備というときには地上に出ないといけないんだ。

抽象的すぎる。

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