日記 2023.7.21

また数日書き溜めた。

この日は久しぶりに演劇をはしごした。
昼は、アトリエ春風舎でお布団「ザ・キャラクタリスティック シンダーオブプロメテウス」、夜はこまばアゴラでコココーララボ「コココーラ」。
どちらもとても面白かった。

お布団は、「しない自由」について考えた。そういえば小学校のとき、どうして毎日学校に行くことになっているんだろう、と素朴に思った気がする。毎日仕事をすること、学校に行くこと、行けなくなったらそれは異常が起きているので適切なメンテナンスが必要とみなされることなど、素朴に「なぜ?」と思うことはある。社会は誰かの労働と生産で回っていて、その一部である以上他のひとたちとの協働が必要なのはわかるけど、そうであることは疑いようがない、と言われると息苦しさもある。
しかし、入国管理や取り調べの暴力はもともと苦手ということがありけっこう見ていてしんどかった。たらいまわしにされ、はなから疑いの目を向けられ、繰り返されるなかで消耗していく様子。だれも助けてくれないことが明らかな環境。そのことから、労働と自由の話に移っていくところが若干段差があるような気もしたけど、そもそも残された記録の断片の想像=演劇という構造なので、前半の俳優を見て何かをわかったつもりになることが罠にも思う。

コココーラは、確実にやってくるクライシスを待つ時間の対話。クライシスは都合よくやってこないので、答えの出ない問いを延々考えることになる、その予行演習ともいえる葛藤と、他者がいるから対話ができるということが、演劇の存在自体とも重なって感じられた。
ドラマは自然と醸し出されていくのだけどそれ以上に「時間」「存在」へのまなざしが感じられた。
俳優さんがお二人とも大変素敵だった。

帰りは渋谷の中本で辛いラーメンを食べて帰る。

以下、はしごの合間に、「くらしの戯曲」について考えたメモ。

・本当のことをもとに戯曲を書く。
・戯曲にするときには、取捨選択や飛躍が行われる。
・全てを説明するのではなく、読み手の想像力に委ねるところをつくる。戯曲は読者の想像に向けて開かれている
・戯曲を(声に出して)読むとき、読者は多かれ少なかれさまざまな想像力を必要とする。それなしでは戯曲はけっこう読みにくい。

・「本当のこと」であっても切り取り方によって文学になる。
・どのように飛躍を生み出すか?
・ある題材を別の人物に重ねる、場面を想像する・・・その場合、あくまでくらしは原作となる。(しかし原作としての地位は揺らがない)

・昨年の戯曲集は直接リサーチを説明するものではない。だけどリサーチの上で行われた作業だったから全体として「くらし発」が保たれていた。今年は、「リサーチの上で」ということは何か設定をしないと生まれないと思われる。

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