日記 2023.7.30

朝から仕事。お米と、蒸しナスのねぎだく漬けをお弁当として持っていく。ここにコンビニで一品足す、みたいなパターン最近は多い。

18時頃に退社し帰宅。パートナーと合流して定食屋に行った。一旦別れて、一人銭湯に行く。ちょうど桃の葉湯をやっているところだった。

銭湯に入りながらいろいろなことを考える。流行りのいけてる銭湯ではないので、常連のようなおじさんばかりが入ってくる。おじさんやおじいさんたちそれぞれには、速度やリズムがあり、身体がある。身体からはそのひとの過ごしてきた時間が滲み出ている。手術跡や火傷跡のある人もいる。
そんな場所で、わたしは一人になることができる。誰もいない場所にいるときよりも、他人に囲まれているときのほうがかえって一人になれる。カフェでもいいけれど、本やパソコンを開けない環境だとかえって頭のメモリをつかって考えているような気もする。
これが、もっと長時間過ごす場所だと息苦しいが、銭湯は適当な時間で誰もが出ていく。ひとが流れている。常に入退場が繰り返される。
これが心地よく感じるのは、ここが都市だからかもしれない。銭湯は、他者に囲まれて生きているという都市の暮らしを思い出させるような空間で、田舎の温泉ではまた違うのだと思う。

ぼくの場合は、「起こす・やる」よりも「やってくる・気が付く」のほうがうれしさを感じる。たとえば38度のぬるめのお湯に入りたいと思って入れて、入る。そこでは、その温度が心地良くても、それは自分で設定したものだから意外性はない。
だけど銭湯は、ある程度予想していても、自分ではない誰かの身体感覚や都合で温度設定をされているかんじがして、それはどんなにささやかでも意外性がある。こうきたか、みたいな。他者を経由する楽しさといってもいい。それは、他者に託したのが自分だったとしても体感的には「やってくる」かんじがする。
舞台芸術もアートもあそびも、この「やってきた」と感じる瞬間が自分にとっては面白い。それに近い体験を、銭湯と、夜の散歩で感じる。感覚の一部がふさがれていたり、普通じゃなかったりする状況ということなのかもしれない。しかし単に目を瞑っても、ベッドで横になっているときは大体思考がまとまらないから適度な緊張感もいるのだと思う。

「やってくる・やってきた」は体験であって、情報や教養ではない。もっとからだで体験するなにかだ。こういう体験が、自分がまちなかや参加型のアートに携わっている根幹にあるのだと思う。対象と自分の関係が変わる、というか、さまざまな可能性があることに気が付けるような。
そのための身近な方法が他者の目線になることと、自分の状態を変えることなのだと思う。この二つは大いに重なっているし、演劇そのものでもある。

21時くらいに出たら、バーに行って少しお酒を飲む。23時過ぎには帰宅した。

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