日記 2023.7.26

今日も食パンを食べる。洗濯を干したりしているうちに出勤時間になる。今日は昼から夜の勤務だった。

仕事が終わると21時。一件、急ぎの電話相談があり職場近くのマクドナルドに入る。夜のマクドナルドにはいろいろな人がいる。サークル帰りの女子大生、仕事をしている風の男性、ちょっと怪しい風体のおじさん、こども。
公園のようだなとも思う。全く別の世界線で生きているひとたちが、束の間同じ空間にいる。誰かにとってはご馳走が食べられる場所かもしれないし、誰かにはだべる場所で、誰かにとっては避難所かもしれない。そうした別の世界を背負ってやってきた人たちが、決して交流することなくいる。公園で寝泊まりができないように、マクドナルドでも深夜寝ていると起こされると聞いたこともある。

ひととひとの交流はよいもの、という前提は交流が希薄になったから生まれてきたのだろうか。何かを一緒にやる時、交流は欠かせない。「やる」は別に仕事や活動でなくても、同じ地域に住んでいるだけで生じるものの可能性もある。だけど全国で都市化が進む中で「交流不要」な状態が求められた。交流不要な匿名性、流動性が都市そのもののようにも思う。どちらが先なのかはわからない。
都市で暮らすなかでは、匿名になれる場が欠かせない。
孤独を味わう場所があるから、交流する場が生きてくるんだろう。交流の場づくりも難しいが、孤独の場づくりも一筋縄でいかない。

ファミレスでも、他のハンバーガー屋でもいいけれど、でもマクドナルドの孤独具合は抜けている。安価なこと、wifiが飛んでいること、値段相応に居心地も諦められていることなどがある気がする。ふかふかのソファで700円くらいするコーヒーを飲むのとは違う、自分自身が都市の歯車になったようなかんじ。そうすることで「わたし」を脱ぎ捨てられるような気もする。だけど、そんな大人だけでなく家族連れやカップルも来る多層的な場だから、周囲へのカモフラージュみたいなものも効く。そのあたりも公園っぽい。

何か大義があるとひとはその空間にいやすい。コーヒーを飲む、ゴミを拾う、など。
設えでもいい。椅子があれば、そこに座ることが許された気になる。
だけどそんな用意された環境にアフォードされるばかりでは、それはそれでなんとなく貧しい気がしてくる。だから環境づくりにも人は向かうのかもしれない。家の模様替え、DIY、掃除。たいていは室内から始まるだろう。まちづくりに行く人はそう多くない。

22:30くらいに切り上げて帰宅。

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