日記 2023.4.22

新しい仕事の環境にも徐々に慣れて、少しずつ落ち着いてものを考えられるようになってきたかんじがする。本当に少しずつだけど。
4月になったばかりの頃は、目の前に次々現れる情報の重要度がわからず常に気を張っていたが、いまは焦らなくてもいいということや、毎日どの程度疲れるかということがわかってきた。リズムができると休み方もわかってくる。新しい水を入れて底に沈んだ泥が舞い上がった水槽が徐々に透明度を取り戻してくるようなかんじ。水槽のなかに今までなかった大きなモノが置かれたが、それはそれで、徐々にあって当たり前のものとなっていく。こうして大抵のことは日常になっていくのかもしれない。

透明度を取り戻してきた視界でやっと、本来の仕事のことを考えることもできるようになってきた。次々と2023年度のプロジェクトや依頼が動き出している。昨年度から続いているもの、新規のもの、変わり目を迎えているもの。どのプロジェクトにせよ、自分の生活の変化が関係してくる。ものを考える立ち位置が昨年と違ってきているから、目を向ける方向や考えること自体が変わっている。それは良いとか悪いじゃなくて変化として認めるしかない。だけど去年何を考えていたのか、それは今どこにいったのか、自分のなかでどこかにいったのか社会的に過ぎ去っていったのか。そういうことを確認するところからやりたいかもしれない。

大きく変わったのは時間の使い方だ。去年の仕事といえば着の身着のままであちこち引っ越したり、深夜までパソコンと向かい合ったり、人と話しまくったり、街を歩きまくったりしていた。テーマにしていたのは「生活」だったが自分自身の生活はかなりトリッキーだった。生活に正解も不正解もないけど、トリッキーな生活はトリッキーな生活なので、それを通して他人の生活が「わかる」ということはなかったんだと思う。自分なりの追体験や、日々去来するあれこれを「生活」という視点で拾い上げていたということはあったけれど、「生活したから生活がわかった」はちょっと違うような気がする。
ああ、そう思うと今になってはじめて、あのときの自分の経験を相対的に見ることができているかもしれない。これは発見だ。渦中で拾い上げたことや心を埋め尽くしていた感情と、あのときの体験はこうだったああだったと今になって思うことはものすごく違う。細胞が一回り生まれ変わって、生活に没頭していたときの自分と別人になったのかもしれない。

いまはスーツを着て、満員電車に乗って職場に通っている。新入りの立場で、職場の文化やルールをからだにインストールしようと務めている。noteの日記に書き留めているこの日記が去年の仕事で書いていたログに近いものだとすると、いま私に起きていることも、1年くらい経たないとよくわからないということがあるかもしれない。書き留めたものは時間を超えて触れることができるし、時間をかけて書いたものであればあるほど、後にふれたときに強度がある。走り書きのメモよりも言葉を尽くした文章のほうが。

今年と去年のあいだには大きな段差がある。新しい仕事を始めたし、大学院を退学した。父が定年退職をしたりもした。膝丈くらいの塀を足を上げて越えた、多分。後ろを振り向いて見通すことはできるが、なんとなく線の向こうというかんじもする。
去年やったことをじっくり振り返ることが大事かもしれない。膝丈の塀で穿たれたボーダーラインが引かれていることによってそれ以前の輪郭がくっきり描かれている面もありそうだ。
それに、スーツを着て務めに出ているといういまの生活がかえって誰かの生活と共鳴するということもあるかもしれない。仕事をしながら感じているあれこれは、誰かも感じているかもしれない。去年、豊島区という具体的なサイトでやっていたリサーチを、生活そのものにインストールしなおすとしたら。考えるだけでくたびれる。でもそういうことかもしれない。直接的ではなくても生活を内省し、記録するくせをつけておくこと、同じことを感じているかもしれない誰かを想像すること。言うのは簡単だけど。

去年に限らず、これまでやってきたことを拾い集めることは、いま自分にとって大事なものを振り分けることにもなっていくようなかんじがする。ありがたいことに関わっているプロジェクトが増えてきていて、立ち上げたときに考えていたことの次のステップにいけたらいいねというものもけっこうある。なにせ塀をまたいでしまっていて、またぐときに多分塀の近くに大事な荷物をけっこう落っことしている。一度手放したものを拾うときには、かがんで、手を伸ばして、つかんで、そのもののかたちを感じて。そういう行程として拾い直して、カゴのなかに並べ直すみたいな、そういうことなのかもしれない。
同時に塀のこちら側で新しい問題の対応もしているから頭のなかが忙しいけれど、それは日記に外部出力することであんまり深く悩みすぎないようにしたいなあ。

キーワードやプロジェクトのメモをmiroに書き出していて、そのなかで一番近々やってくるのが東長崎のシェアハウスのイベント。今日はその打ち合わせで7時間くらい話していた。煮詰まり、進み、戻りを繰り返す。まだ結論は出ていない。こういうときは手を動かしたほうがいいといろいろな人が言っていた。だから手を動かしてなんやかんやをこうして書いている。

ずっと「終わり」を考えている。考えているあいだにも終わりは近づいてきている。よい終わりなんてあるんだろうか。人間だったらまだ、自分の意思をひとに伝えることができる。だけど家の場合は? プロジェクトは? 都市は? 最期のときがいつなのかもはっきりしない。植物みたいだ。植物の看取りってあるのだろうか。都市のような大きさだと逆に一個の命のように見ていけるかもしれないけれど、家やプロジェクトだと、終わらせるのも人の手だったりする。記録集をつくればいいのか? 感謝祭を開けばいいのか? 何かをしてもしなくても終わりはやってくる。建物やプロジェクトの「終わり」は、残された時間がついえることでもある。だとしたらどんな時間を生み出すのか。消えてはまた蘇るような、季節の循環のような時間? だけど季節だって去年咲いた花と今年咲いた花は違う花だと思えば、繰り返しもなにもない。違う花でも、次に咲いた花を見たときに以前の花の面影を見ることができればそれでいいのだろうか?

小さな終わりを事細かに記録していくとか、徹底的に細分化していくとかはどうだろう。ジョジョ6部で緑色の赤ちゃんに向かって飛び降りていくときに、半分、半分、半分と体が小さくなって永遠にたどり着かないように。うーん。

話し合いに疲れてから夜ご飯を食べて帰宅。東南アジアとのmtgに参加し、23時まで諸々オンラインでmtg。
明日のお弁当のおかずをつくって、これを書いたので眠る。6:30には起きる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?