日記 2023.2.20

眠い眠い眠い。5時間くらいの睡眠ののち起床。ささっと用意をしてバイトへ。今日は何曜日だっけ?月曜日か。副都心線の各駅停車は急行に比べると多少余裕があるけど、いつも数分遅れている。

夕方まで働く。休憩時間には昨日の日記を書く。SNSのやりとりを経て近所でお世話になっているひともnote日記を始めていた。そのひとは15分で書ける範囲のことを書くそうだ。ぼくは、長いと30分くらい書いている。内容によっては一度見直して遂行するが、気乗りしないときはそのまま公開している。

つつがなく勤務を終えると、来月に行うWSの打ち合わせで新宿に向かう。日が落ち始めていて、強めの風のなかにはたしかにまだ冬がいた。空腹だったので、マクドナルドでチキンチーズバーガーセットを買う。すぐに冷めてしまいそうだったので歩きながら食べる。お行儀よくないが、数本まとめてワシワシ食べるポテトはゆっくり食べるよりもおいしい。マクドナルドでは体格のいい外国人が次々とテイクアウトしていた。

20時頃まで打ち合わせや世間話。外に出るとすっかり夜だった。
地下鉄に乗って、今日は両親の住んでいるマンションへいく。明日、父が免許センターに行かなくてはならず、それが割と早い時間だったので今日は泊まるという話になっていた。また、満期退学の書類にサインをしてもらう必要もあった。父も母も、あまり突っ込んだことを言わないようになってきた。どうにか自分で考えてやっているのだ、と思ってくれているのだと思いたいが果たして。

食後、関わっているシェアハウス演劇の関係で家族の古い写真を出してもらう。幼稚園や赤ちゃんの頃の自分や兄弟、従兄弟がいて、亡くなった祖父がいて、いまの僕の年齢ほどの父や母、叔父や叔母が写っていた。年齢は同じだったとしても、いまの自分は当時の父母たちと同じ程度に大人になっているのだろうか。大人は、環境の変化のなかで覚悟を重ねることで徐々になっていくもののように最近思う。環境が変化しないと、なかなか大人になれないようなかんじもする。自分で満足が行く程度には大人になりたい。その猶予があるのは30代前半までな気もするが、どうだろう。

シャワーを浴びながら、家や家庭のもっている時間について考えた。時間の蓄積ではなく、24時間のなかでどういうリズムが刻まれているかということ。お風呂がわいたあとは次々入るほうがよくて、24時には寝るのが普通で、朝は7時過ぎには朝食を食べるようなそんなリズム。両親のところに来るとそのリズムのなかで過ごすことになる。リズムに抗おうとすると、文字通り流れをせき止める杭のように、流れているものに不自然な力をかけることになる。それに合わせていれば、そこに流れる様々な力の恩恵を受けられる。「これが実家か」という感慨もある。自宅では流れそのものを自分でつくっていく必要があるから、流される体験はできない。流れは保護であり、安全維持でもある、きっと。そのありがたさが最近、よくわかってきた。

明日6:30に起きる必要があるため、早めに横になる。読みかけの三島由紀夫の小説を読みつつ、この日記を書いている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?