日記 2024.3.9

朝から仕事でイベント対応。明日から三連休でいろいろできなくなるので、なんとか必要なことを全て終わらせて帰ろうと必死に働く。朝も早めに出勤した。土日は電車が混んでいないことが唯一の救いだ。

残業で少し遅れてしまったけれど、退勤後は目黒に駆けつけて合同会社メッシュワークの人類学ゼミ展示とトークに参加した。人類学の眼差しやフィールドワークに関心のあるひとたちが半年間活動し、それぞれが問いを深めるなかで「フィールド」を見つけて「フィールドワーク」を実施、そのプロセスや現時点で行き着いた場所、発見などを展示していて、トークはゼミ生とメッシュワークのお二人が過程をふりかえり、観客といっしょに問いを深める時間だった。

自分自身のフィールドワークへの関心は、大学院のときからなので7年くらいさかのぼる。まちづくりの研究室に在籍していて、そこでは足を使って現場に入ることやアクションリサーチが推奨されていて、現場でのデータ収集の方法論あるいは態度としてフィールドワークに出会った。専門は人類学でも民俗学でも社会学でもなかったが、広く社会科学の方法論のひとつとして理解し、受容をした。なのでアクションリサーチや「質的調査、質的データ」「実証主義」「物語論」などの用語とセットで「フィールドワーク」ということばとは出会っている。自分の理解ではフィールドワーク自体は包括的なことばで、その実際の手続き(少なくともまちづくりのような分野でフィールドワークをする場合)ではフィールドノートは当然として、インタビューやアンケートも含むはずだけど、「現場に出る」という態度には、もともと劇場からまちに出て市井の人々と関わりながら演劇をつくる道を選んだものとして共感を覚えた。もちろん作品をつくるときのフィールドワークと研究としてのフィールドワークは、実際の作業の部分では大きく異なるけれど。佐藤郁哉さんの本でフィールドワークを「野良仕事」と呼んでいたのがなんだかいいなと思った記憶もある。

自分も研究と創作という異なる立場からそれぞれフィールドワークに触れているように、目的や切り口によってフィールドワークの実際や捉え方には幅があるのだと思う。今回の展示とトークでの「フィールドワーク」は、創作のときとも研究のときとも違った立ち上がり方をしているような気がした。作品づくりや研究といった何かのための手段としてのフィールドワークというより、きっとフィールドワークという経験や身の置き方それ自体を駆動させることにモチベーションを見出したひとたちの集いで、そうした集いに会場に入りきれないほどの人が集まっているということがとても印象的だった。なにか問いの答えへの熱ではなく、フィールドワークを通して見える社会や自己変容への注目が高まっているのだと思う。これは、仮説や問いの立て方、物事の実証の仕方、社会との関わり方に関するゆるやかなパラダイムシフトなのだろうか。情報から身体への回帰というふうにも見ていけるのかもしれない。

途中からの参加だったので聞き逃してしまった可能性があるのだけど、ゼミに参加されているのは普段は会社員をされていて、という方が多いように思われた。「普段の生活とは違った視点」としてのフィールドワークへの眼差しもあるのかなあと思った。生活のなかにどうフィールドワークを取り入れるかという実験でもあり(しかしゼミ生のみなさんは誰かの生活をフィールドと呼んでそこに入っていくという作業をしている)、広くとらえると「生活の意識化」につながる社会実験なのかもしれないなあとも思った。
トーク終了後にながめた展示も面白かった。ひとが自分の興味をつきつめて内省する過程は、真実が宿るように感じられて見ていて面白い。それは「自分はどうなんだ?」という問いを喚起するからかもしれない。「いまフィールドワークをしている」という特殊な状況設定でなければ考えないこと、しないこと、喜びや発見が随所にあって、それは日常生活と比べると特殊な状態だと思うのだけど、やはり自分のフィールドワークを思い出して興味深く思ったりした。

一方で、「フィールド」とされて日常に他者を受け入れる側のことを思った。果たしてそれはフェアな関係なのだろうか。いま参考に読んでいるフィールドワークの本では、「関心を持って話を聞きに来るひとがいることは喜びに違いない」などと書いてあるのだけど、なんでそんなことがわかるんだと違和感を覚えている。調査するものとされるものの不均衡さを埋める努力、あるいは埋まらない不均衡さについてどう自分なりに責任を負えるのかという点を掘り下げるのは重要で、それは匿名化すればOKという手続きの話では解消されないと思う。フィールドワークは旅と似ているところもあるけれど、旅は計画し得ない面があるが、フィールドワークではこういう話を聞きたい、こういう場面に居合わせたい、こういう問いを深めたいといったねらいが何かしらあると思う。そしてそれを明瞭に伝えることなく現場入りが先行したりもする。もちろん経験則として、言葉や感覚が異なる相手に全てを伝えるのがベストかというのはあるけれど、こちらに自己変容がありうるなら相手にもありうるはずで、そこにコミュニケーションの回路を開けるかどうかはポイントだと思った。
このあたりは自分自身の過去のフィールドワークの反省でもある。

20:30くらいに会場を出て、帰り道のラーメン屋で食べる。大盛りにしたらものすごく多くなってしまって必死に食べた。
帰宅すると22時近く。翌日早めに起きて活動する予定だったので早めに休んだ。

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