日記 2023.4.28

連勤の3日目。同じように満員電車に乗って行く。昨晩、気合を入れてつくった焼きそばをお弁当箱に詰めた。焼きそばに限らずお弁当箱に入れると何でも圧縮されるというか、せっかくならたくさん入れていこうとしてしまう。そうするとちょっと味も変わってくる。本当だったら家で食べるように余裕を持って詰めるといいのかもしれない。

17時半くらいまで働く。最低限の業務は覚えてきた。わからないというストレスや不安が減ってくると少しずつ楽になるが、それでも退勤するときにはクタクタになっている。心理的なところもあるけれど、スーツと革靴から来るものも大きい気がする。シャツをインして、形が崩れないように無意識的に気にしているとけっこう上半身の動きは制約される。シャツを選ぶときもオーバーサイズは選ばないから、やっぱりゆとりはない。衣服は拘束具でもある、という話を昔衣装家さんに聞いたのを思い出す。衣服は人体をしばり、規範として働いている。それによって心身ともに鍛え上げられるものもあると思うけど、あまり柄じゃないんだなとやってみたらわかった。これも1年続けたら変わってくるのかもしれないけれど。

帰宅して、着替えてすぐに30分くらい横になる。少し疲れというか筋肉のこわばりが抜けていく。歩いて隣駅に行き、友人と焼鳥を食べた。地域のひとが手取り足取り教えてくれる焼き鳥屋さんでおいしかった。

帰りにシェアハウスに立ち寄る。無人だったけどすぐにひとり、ふたりと帰ってきたり、訪ねてきたりした。
改めて「ひとの住む場所じゃない」と思った。このあいだつくった吹き抜けがどうこうではなくてものが散乱しすぎている。住人は減っていっているはずなのに、誰のものかわからない、必要なのかもわからないものがそこらじゅうに置かれている。足の踏み場もない。本来の置き場所も持ち主もわからないからどかすにどかせない。安全な場所がない、安全が保たれない。廃墟として見れば面白いけれど生活するのは正直厳しい。自分なりの秩序を保った散乱ならいいけれど、ここにあるのは他人の無秩序。他"人"ですらなく、意思を超えた現象のようにして荒れている。
「個」と「供」の境界線が引かれている頃はよかった。共用部が荒れることは問題だといえたし、そのことに関与していくことができた。ひとの活力を奪っていくのは無力感だ。どうにもならない、自分の手を超えたところで変わっていってしまう。そうして無関心になっていく、傷つかないために。それはトップダウンのまちづくりで言われることにも似ている。無責任の集積地。ずっとこのシェアハウスの最期をどうするかと考えているなかで、なんだかそのことばかりを考えてしまう。
大事にされた建物の最期とは少し違う、確かな事実としての「荒れ」を見ないことにするのかどうか。それをよしとしている人はほとんどいない。だけど、どうにかすることができていない事実もある。そういうなかでこのシェアハウスは終わっていく。

東京スープとブランケット紀行の記録集を読み返していて、詩やたとえ話の力を感じた。事実や存在をなにかに例える、似たものと重ねる。私の経験や感性を手放さず、でもはるかな射程に放り投げていくようなしつこさと軽さ。

去年の企画でビジュアル撮影をさせてもらったコインランドリーが閉店したということで見に行った。割れた窓をふさぐかのように養生テープが貼られたガラス戸のなかにはまだ忘れられた洗濯物が雑然と積まれていた。急なことだったんだろう。息つくまもなく空間は変わっていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?