See The Sky About To Rain――青山真治追悼
※初出/『群像』(2022年6月号)
もとよりカメラは離陸していたのだった。青山真治の映画を観つづけてきた者の多くが、彼の予期せぬ早世によってそれに思いあたり、深く静かな驚きをおぼえたにちがいない。
それというのは円環を閉じるかのごとく、初作の冒頭と遺作の末尾が明白な一致を示すことを指している。長篇劇映画の初監督作にあたる『Helpless』は真俯瞰空撮による風景ショットではじまり、最終監督作『空に住む』では高層階から撮られた窓外眺望ショットがラストに配されている。偶然が必然と化したかのようなその事実をどう受けとめるべきなのか、追悼文を記す者としてはいろいろと考えさせられてしまうが、いずれにしても作家自身の説明に耳をかたむけることはもはやかなわない。このきびしい現実に今あらためて呆然としている。
一五本目の長篇劇映画監督作にあたり、二〇二〇年に発表された『空に住む』は、劇場での初見時からして例外的な青山作品に思えた。作中からうかがえる作家の存在感がいつもと際だって異なるように感じられたのが主たる理由だった。これは印象論にすぎないが、つくり手個人の創造的嗜好性ないしは指向性に直結する表現をできるかぎりとりはらっているふうに映ったのだ――補足すれば、署名抹消の目的化というより内容上の要請により、それらの符牒をとりいれる余地はなくなったものの、デヴィッド・ボウイ関連の引用についてはキャラクター設定の強調をねらう効果として採用されたのかもしれないと推測される。かといって、作者の影が薄いとかいう単純な話ではない。むしろ反対に、『空に住む』は、青山真治そのひとの輪郭を色濃く浮かびあがらせるきわめてパーソナルな映画に仕あがっていると指摘したとしても、反論は少なかろうという気がする。
『空に住む』はそもそも完成度が高い。画面設計ないしは場面構成、芝居構築、ロケーションの選択から美術配置にいたるすみずみまで、工夫を惜しまず型どおりの造形を避けつつ緻密に組みたてられている。それのみならず、ドラマ上では人間関係が複雑にからみあうなか常識や一般性なるものへの抵抗がたくみに物語られるわけだが――そうした特色は、どれも過去の青山作品においても認められるということも言いそえておくべきだろう。
その意味では、『空に住む』にはあらゆるものがそろっているばかりか、以前にも増して演出に力がそそがれているのではないかという感触すらある。つまり本気で撮られた映画であるのはたしかだ。ゆえに作者の影は薄まるはずもないのだが、それにしては不思議なくらい気負いを感じさせず、衒いなどかけらも見あたらない。
あるいはこう言ってよろしければ、北九州三部作や『月の砂漠』といった代表作には作家の思考はおろかあの巨体の重量や熱量さえ伝わってくるほどの存在感が刻印されていたように見うけられたが、最後の監督作にそうした気配は見られない。においや雰囲気すら嗅ぎとれぬまでに徹底してみずからを希薄化させているかのごとき澄みきったおもむきを呈しているのだが、にもかかわらず、作品全篇をあまねく見とおすまなざしの主体がはっきりと知覚できてしまうところが『空に住む』の例外性をあらわしている。それは見方を変えれば、作品と作家がかつてないくらいシームレスに一体化していることの証左とも言いうるかもしれない。
監督自身にとり、「女性」を中心にすえた長篇劇映画の初の本格的試みだったこともその希薄化に影響したのだろうか。おなじく「女性」が主役の映画ではあるものの、特殊な役割を課されたキャラクターによる謎めいたドラマが展開される『シェイディー・グローヴ』や『EM エンバーミング』や『こおろぎ』とは異なり、『空に住む』はいわゆる「等身大の平凡な独身OL」の心理劇に焦点がしぼりこまれてゆくから、それに見あった演出方針を推しすすめた結果の印象なのかもしれないとも考えられる。
特殊な役割を課されたキャラクターには役柄やジャンルにふさわしい表現のコードがあらかじめ用意されているが、「等身大の平凡な独身OL」は決まった色がなく目だった特徴をもうけにくい。ありふれた属性だからこそ、実在性の演出は簡単ではなくなる。そうした人物像を、どちらかというとアウトサイダーの男性キャラクターを主人公にすえることが多かった男性監督が本気で撮るには、においや雰囲気すら嗅ぎとれぬまでに徹底してみずからを希薄化させざるをえず、まなざしそのものと化しつつ作品と一体化しなければならなかったのかもしれない。固有性を帯びたリアルな一個人として「等身大の平凡な独身OL」をスクリーン上に立たせるには、役者の一挙手一投足を現場で注意ぶかく見まもりつつ適切な瞬間を場面ごとにつかまえてゆくしかなかったわけだ。
ならば『空に住む』において、その「等身大の平凡な独身OL」はどのような経緯を通じて固有性を帯びていったのだろうか。
両親の急逝を機に叔父夫婦より招かれ、都内タワーマンション高層階の一室で暮らすことになった主人公の直実は、さしあたっては孤独な様子には見えない。郊外の日本家屋をオフィス利用しているめずらしい中小出版社につとめる彼女は、和気あいあいたる職場で同僚たちと明るく語らいながら編集業務にいそしむ日常を送っている。後輩にも慕われ、上司との間柄も良好で重要な仕事をまかされるくらい信頼されてもいるようだ。タワーマンションでは転居後まもなく知りあった有名俳優に振りまわされつつも彼とメロドラマチックな色恋沙汰を演じ、部屋のオーナーであり別の階に住む叔父夫婦もしつこいほどしょっちゅう訪ねてくるからひとりになる時間は少ない。なにより飼い猫のハルがいつも室内のどこかにいてときどき寄りそってくれる。
そんな直実にも、感情を素直に表現できないという悩みごとがある。両親の葬式で泣けなかったことを気に病んでいる彼女は自分自身の弱さを自覚しているが、文語的な物言いが口癖でもあるせいか周囲にはクールに見られがちだ。それを外面と内面の不一致だと言いあてる有名俳優には、本当の気持ちを噓のふるまいで隠していると指摘される。そうしたみずからの性格の問題に加え、叔父夫婦のおせっかいも悩みの種だ。とりわけ叔母による善意の押し売りめいたゆるやかな支配をうとましく感ずることになる。
ドラマの後半、直実はおおきな試練を経験する。有名俳優や叔母との関係がこじれ精神状態が悪化するなか、飼い猫ハルの発病と死という最悪の事態をむかえるのだ。そのどん底から自力で立ちなおり、有名俳優とは色恋も仕事も両立させる仲を築いたすえ、ハルを火葬し遺骨を両親の位牌とともに窓辺の祭壇にならべるまでが物語られてゆくのだが――つまり『空に住む』とは、文字どおりの葬送の映画なのだ。それを今、遺作として見なおさねばならない鑑賞体験は虚実の反転を錯覚させずにはおかず、こうなることを予見したうえで組みたてられた作品なのではなかろうかという妄言さえつぶやかせてしまう。
もっとも、虚実の反転じたいは『空に住む』そのものの構造に組みこまれている。外面と内面の不一致という直実の性格問題がまず当てはまるが、それ以上の役割を担っているのがタワーマンション高層階の一室だ。見方によってはあの部屋は、虚実反転の舞台として設定されていると解釈できるからだ。
映画において窓――すなわち光を受けとめる四角い平面はスクリーンの隠喩として機能する。だとすれば直実がタワーマンションで最初の朝をむかえる場面、自動カーテンが開き室内に陽光がさしこむ描写が意味するものは映画の上映開始であり、高層階一室での出来事は映画内映画であると見なしうる。現に、都内タワーマンション高層階の生活は夢のようなものと位置づけられており、おなじ空間で住人が映画スターとメロドラマを演ずるまでにいたるのだから、その解釈をしりぞけるのはむつかしい。
映画は夢を見せるが同時に抑圧的な悪影響をもおよぼす。青山真治にとっての映画館とは、ときに閉塞を起こし、与えもすれば奪いもする試練の場でもあるのだ。そうした意味を際だたせるべく、高層階一室の窓はまぶしい陽光を受けとめはしても決して開けはなたれず、タワーマンション内の各所を切りとる構図は壁やドアの遮蔽性ばかりを目だたせるが――それ以外の、中小出版社の日本家屋をはじめとした空間はどれも明らかに開放的な環境として撮られている事実を見のがしてはならない。
そんななか、虚実の反転は日没とともに生ずる。逆に今度は室内光が光源となり、内から外へ向かって映画内映画が上映されるシチュエーションが描かれることにより、感情表現のねじれも解消を遂げるのだ。試練を通過し、約束のロングインタビューを果たすために直実は有名俳優を部屋に招くが、最後の質問を終える頃には陽が沈みだしている。そのきっかけを待っていたかのように、途端に受け身の立場を脱した彼女は主導権をにぎり、有名俳優をみずからベッドへ誘うのである――つづくショット、ベッドにうつぶせで寝ている裸体の背中がオレンジ色の光と紺色の影に二分されたように映る画面設計は見事だ。
ラストシーンで直実は自分のためだけに料理する。食後に彼女は窓辺に立つのだが、そこで伸びをする姿を背後からおさめた引きのショットは印象的である――緑色のワンピース姿で祭壇のかたわらに立ち、体を伸ばす姿勢が画面手前の花瓶とかさなり茎のように見えることにより、直実自身が生けられた供花と一体化したかのごとく読みとれるからだ。
さらに印象的なのは、陽光を浴びつつ窓外を見つめる直実の表情の、神々しいとさえ感じられるクローズアップだ――虚実の反転を経て、彼女自身がスクリーンと化す瞬間を示すことにより、自分自身と映画との和解劇を青山真治は演出していたのかもしれない。
そしてあの、窓外眺望ショットがラストにあらわれ、『Helpless』冒頭とつながって長年にわたる円環を閉じる。ただし、真俯瞰空撮と窓外眺望はカメラの向きが縦と横で異なるのだから、その円環はメビウスの帯状にねじれている可能性がある――以前の直実の感情表現のように。したがってもう一度、今度はわれわれこそが虚実の反転を試み、青山真治をよみがえらせなければならない。スクリーンに上映できる輝かしいタイトルが何本も存在している以上、それは絶対に不可能なことではないはずだ。
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