Hello, Goodbye――山田洋次『こんにちは、母さん』

※初出/『週刊文春CINEMA!』(2023夏号 06/14発売)

 山田洋次にとって九〇本目になるという最新監督作『こんにちは、母さん』は、本年公開のマーベル映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』とほとんどおなじ物語を展開させている。製作国や作者の世代のみならず、ジャンルも設定も規模もまるで異なるわけだから、両者の内容に高度の類似性が見てとれると断定されれば意外に感ずる読者は少なくないかもしれない。
 しかしこれはさして驚くべき偶然ではない。幅ひろい客層を想定した興行演目にほかならず、役者の芝居を主たる構成要素とする長篇劇映画は、たいていは観客の感情移入をそそる存在間の交感や葛藤のドラマとして組みたてられる傾向にあり、だいたい九〇分から二時間半くらいの長さにまとめられる作品が集中的に多い。かような条件のもと一〇〇年超にわたり作品を量産しつづけていれば、当然ながら筋だてのパターン化は避けられない。かぎりあるパターンの組みかえが世界中でくりかえされ、時代ごとに浮かびあがる表現上の制約もそこに加われば、東京下町の向島を舞台とする松竹人情劇と大宇宙でくりひろげられるハリウッド製スーパーヒーロー活劇という対極に位置づけられそうな二作がほとんどおなじ物語を展開させてしまったとしてもなんら不思議ではないのだ。
 そうはいっても両作のあいだには無視しがたいほど共通点が目だつことも事実である。「母三部作」の完結篇とされる『こんにちは、母さん』と『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』は、どちらもトリロジーの最終作にあたると同時に(以下ネタバレ)、窮境におちいった親友を救うために男性主人公が奔走する過程をメインプロットのひとつに採用している(ちなみに描写内容の度合にへだたりはあるものの、強者としてふるまう敵役に対し当の親友みずから攻勢をかける仇討ち的な場面が作品後半に用意されている点でもふたつはかさなる)。
 また、実質的に終わった関係にある妻/恋人への未練を残しつつもどうにもできずにいる主人公の孤独感を冒頭で提示するこの二作は、結末にいたってもよりをもどすことなくそれぞれ別の生き方へ進む男女の選択をそろって明示してもいる。さらにはいずれの作品も、親友の救済をやり遂げた男性主人公が何年も所属していた組織を脱退し、親族の暮らす実家へ帰るところで幕を閉じるという一致点も認められる。
 最後にわかれを経験するのは男性主人公ひとりではあらず、『こんにちは、母さん』では女性主人公タイトルロールたる寡婦の失恋模様にもカメラは向けられている。ホームレス支援のボランティア活動(この団体をここでガーディアンズ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅と呼んでみても違和感は生じまい)をともにする団体主宰者にひそかにこころを寄せている彼女は、その高齢牧師の北海道転勤という転機にいきなり直面し、相思相愛の仲であるのをたがいに認識しあえぬまま別離におよぶことになる――ひとつ苦言を呈しておけば、高齢牧師の転勤決定がいささかとってつけたような急展開に見えてしまうのは、たとえ語りの経済効率を第一とする形式を選んだ結果なのだとしてもほんのワンカットで先に予兆を示しえていたはずであり、こちらがそれを見のがしたのでなければ創作上の不備であろうと指摘せざるをえない。
 他方、実験動物や誘拐被害児童といった弱者の保護に物語の重点を置いてもいる『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』で同様の経緯をたどるのは、マンティスとドラックスという親しい間柄にある男女のキャラクターたちだ。最終的にふたりは今までどおり同環境で親睦を深めるのではなく、別々の(ひきとった弱者との共生)生活をいとなんでゆくことになり作品は大団円をむかえる。
 ジャンルも設定も規模もまるで異なるにもかかわらず、筋だて上の共通点をざっとこれだけあげられるのはおもしろい偶然ではあるものの、とはいえ前述のとおり驚くほどのことではない。かぎりあるパターンの組みかえにより映画産業じたいがなりたっている以上、そういう二作がたまたま同年に公開されてしまうことになってもそれは平常営業の範囲でしかない(あるいは本年公開作をひとつひとつ丹念に見くらべてゆけば、高度の類似性が認められる作品はほかにも少なからず見つけられるだろうとも考えられる)。
 しかし肝心なのは、映画とは幸いなことに筋だてのみでできているわけではないという周知の事実である。むしろ筋だて以外の部分にこそ、映画の真の魅力が宿るのだとここであらためて想起しておくべきだろう。
 ならば、筋の運び方にはなんら工夫の見られない『こんにちは、母さん』の場合、どこにそのような魅力があるのだろうか。それは作品後半、吉永小百合演ずる女性主人公と寺尾聰演ずる高齢牧師のあいだで展開される恋愛劇がたどり着く、クライマックスの場面に見てとれると言えよう。
 そのシーケンスは、高齢男女が初デートを経験し、たがいの距離をひときわちぢめる内容になっている。クラシックコンサート鑑賞、川辺のカフェでの歓談、遊覧船乗船というプロセスを経て、当の老カップルがゆきついた先は下町商店街の一角にかまえる店舗兼住居である。夕刻間近、牧師をつれて住まいに帰った寡婦はだれもいない居間を簡単にかたづけてから薬缶を火にかける――ふたりきりになれる環境で、親密度をいっそう高めるためのお膳だてをととのえているふうにも映る、メロドラマ調の構成だ。つづいて家にあがるよう促すべく牧師のもとへもどるのだが、玄関口で彼はつっ立ったまま屋内に背を向け引き戸の柱に手をかけながらうなだれている。「どうしてそんなところに?」と訊くや牧師はふりかえり、北海道転勤の決心が打ちあけられて寡婦の恋の終わりが決定的となるという流れである。
 山田洋次の演出はこのシーンに特別なニュアンスを持たせている。それまで作中に見られなかった種類の(あえて使わずにとっておいたのかとも推測させる)寄りの構図を連続させ、作品ぜんたいを通して明らかに突出した印象をもたらす場面に仕あげているのだ。
 具体的にはあがり框のあたりに腰をおろし、ななめの位置関係でやりとりするふたりをいくつかのカットにわけて描いているのだが、寺尾聰の胸もとより上部をおさめてほぼ真正面から表情をとらえたバストショットが挿入されるや途端に画面の感触がさまがわりする。それは高齢牧師が北海道転勤を決めた事情や真意をみずから語るくだりゆえ、彼の心情がよりはっきりと見てとれる距離へとカメラを接近させ、わかりやすく表現することを山田洋次は選んだのかもしれない。
 であれば次は、高齢牧師の告白を受けとめ自分の失恋を悟る寡婦の顔色もまた至近距離からとらえ、観客がまだ目にしていない距離感の画面で初デートの結末を描きださなければならない――かような演出意図の結果なのかどうかはともかく、画面右に寺尾聰の横顔を配し、吉永小百合の面持ちの変化を克明に示すアップショットは本作のハイライトと言える。動揺を隠せずにいる寡婦は、薬缶の沸騰音にせっつかれていったんその場を離れねばならなくなり、立ちあがる際につんのめりかけて高齢牧師に軽く抱きつくような体勢をとったあとに奥へとひっこむのだが、ここまでずっと吉永小百合にあわせて設定されていたフォーカスがこのアクションをきっかけに手前へ移動し、寺尾聰の側頭部が鮮明に映しだされたところでカットが切りかわる流れは見事である。
 その後、寡婦がもどるのを待たずに「失礼します」と告げて牧師は立ちさってしまう。すると画面は屋内から外の通りまで見とおせる縦構図のショットへと移るのだが、撮影所伝統の絶妙なタイミング演出がここで発揮されている点にもぜひ注目してほしい。まず去り際の寺尾聰が引き戸を閉めた直後に豆腐売りのラッパが聞こえてきて、それが合図となったかのように小走りの吉永小百合がフレームインして画面奥に位置する玄関口へ向かう。引き戸を開けた吉永小百合は路上に立ちどまり静かに寺尾聰の行方を見まもるのだが、そこで彼女の横を自転車がさっと通りすぎてゆくひと手間こそが映画の醍醐味である。次は切りかえしのショットになり、屋外にすえられたカメラは店先で立ちつくす吉永小百合のたたずまいをとらえ、ほどなく豆腐売りがラッパ音とともに画面を横切っていってこのシーンは終了となる。
 種々の社会問題を盛りこみつつ、下町人情劇をベースに交感や葛藤を物語るも、基本的には難問解決へのとりくみ過程の描写をはぶいてドラマの形成を避けている、形式主義的作品――そんなふうに見えなくもない『こんにちは、母さん』は、たしかに段どり芝居の全面的な採用が当の印象を強める一因になっているとも言える。が、段どり芝居のつみかさねが放つ美というものが映画にはあり、筋だてではなく撮影所伝統の絶妙なタイミング演出によってそれがあざやかに具現化されることはまちがいない。山田洋次の九〇本目になる最新監督作には、その現在形がきざみこまれているわけである。

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