Break Up To Make Up――青山真治追悼

※初出/『小説TRIPPER 』(22年夏季号)

 早くも梅雨いりしたかのような五月なかばにこの原稿を書いている。青山真治監督が亡くなってもうすぐ二カ月が経つところだ。その間わたしは読売新聞、『群像』、『文學界』といった三紙誌に追悼文を寄稿した。四つめとなる本稿にとりかかってふと感ずるのは、書き手としてじゅうぶんなつとめを果たしきれないおのれの力不足だ――故人の手がけた創作分野は多岐にわたるが、こちらの注目はどうしても映画にかたよってしまうことを面目なく思う。いずれにせよ、青山さんの逝去を悼む文章を発表するのはおそらくこれが最後の機会になるだろう。にもかかわらず、終わりの実感は薄く、どちらかというとむしろはじまりの予感めいたものがきざしている。
 理由のない予感ではない。始終が入れかわるようなその転倒感覚は、青山作品にもとより内包されていると言えるからだ。
 明白な特徴として、青山真治の映画はなんらかの終わりからはじまることが多い――あらためてこう指摘すれば、喪失や終末や破滅がドラマの起点となり、またはひとの死がメインプロットを起動させることになる諸作の冒頭が相つぎ思いおこされよう。
 たとえば『Helpless』の連続殺人は、出所した隻腕ヤクザに所属団体の解散と親分の死去が伝えられたことをきっかけに生起している。『冷たい血』ではまず衆人環視のなか銃撃殺人事件が発生し、次なる展開として逃走犯を追った矢先に撃たれて瀕死の重傷を負った刑事が通りがかりのなにものかに拳銃を奪われ、そのあげくに彼は妻と職を同時に失い映画の本筋が動きだす。
 さらに例示すれば、『シェイディー・グローヴ』は失恋と仕事の行きづまり、『EM エンバーミング』は投身自殺、『EUREKA ユリイカ』はバスジャック殺人、『月の砂漠』は夫婦関係の破綻と会社の倒産危機、『レイクサイド マーダーケース』は密室殺人、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』は死病の蔓延、『こおろぎ』は江戸時代下のキリスト教弾圧と宣教師の死(オープニングのタイトルバックで示される)、『サッド ヴァケイション』は中国人密航者の客死とマフィアによるブローカー仲間の射殺、『空に住む』は両親の事故死、といった具合に、青山作品の導入部に終局的ないしは破局的シチュエーションが据えおかれることはほとんど制度化していると言っていい。物語ごとに規模は異なるものの、崩壊した世界が作品の入口になっているのだ。
 むろん終わりからはじまる構成じたいが特筆に値するのではない。作劇上の典型として、終わりからスタートする物語は新たなはじまりをもとめ、破滅が出発点となるドラマは再生を目ざして組みたてられてゆく。青山作品もおおむねそうした軌道を描いて進展するのだが、スクリーン上に映しだされる動態は効率性や単純化とは相いれない重い足どりだ。どこにいようと居心地が悪そうにしているひとびとが不安定な挙動をくりかえすため、いつ立ちどまってもおかしくはないし道をはずれたまま本来のルートへもどらないとしてもまったく意外ではない。近道の存在など端から度外視し、堂々めぐりや遠まわりしか進み方を知らないみたいに蛇行ばかりをかさねるのが、青山真治監督作に共通する性格と言えるかもしれない――こうした性格を最も色濃く反映しているのが、『月の砂漠』であると考えられる。そして仮にその性格が、作者の身体性なるものと直結しているのだとすれば、作品歴に認められる変遷をひとつの成熟史として解釈してみたい誘惑にもかられる。
 わたしは『群像』へ寄稿した追悼文にこう書いている。

  それというのは円環を閉じるかのごとく、初作の冒頭と遺作の末尾が明白な一致を示
 すことを指している。長篇劇映画の初監督作にあたる『Helpless』は真俯瞰空撮による
 風景ショットではじまり、最終監督作『空に住む』では高層階から撮られた窓外眺望ショ
 ットがラストに配されている。偶然が必然と化したかのようなその事実をどう受けとめ
 るべきなのか、追悼文を記す者としてはいろいろと考えさせられてしまうが、いずれに
 しても作家自身の説明に耳をかたむけることはもはやかなわない。このきびしい現実に
 今あらためて呆然としている。

上述どおりの「明白な一致」を見せるものの、両者には「真俯瞰空撮と窓外眺望はカメラの向きが縦と横で異なる」というちがいが認められることも同稿終盤でわたしは指摘している。その意味では、青山作品は最後の最後に出発点に帰ったようでいて、たどり着いた先はじつのところもとの場所とおなじ環境ではないと理解するべきなのかもしれない。ならばそこには、どんな変化が見てとれるのだろうか。
 一九九六年の初公開当時、わたしは同時期に発表されたふたつの日本映画と比較して『Helpless』を論じ、北野武監督作『キッズ・リターン』とともに擁護したことがあった(カイエ・デュ・シネマ・ジャポン編集委員会『映画のジオグラフィー』一九九六年一二月刊)。是枝裕和監督作『幻の光』と小栗康平監督作『眠る男』――どちらも安定した構図と静的な画面を基調とした作品であり、国際映画祭で高く評価されている――に見られる風景と物語が、「日本的情緒」のステレオタイプを再生産する「癒し」のイメージ(オウム真理教事件と阪神・淡路大震災を経験した九〇年代中期の日本社会をひろく覆っていた)にほどよくおさまるものだとすれば、『Helpless』の示す北九州のロケーションは逃げ場のない殺伐たる抑圧的環境として機能し、安易な和風回帰の風潮に強くあらがっている、といったような内容だった。
 画面設計を見くらべてみれば、上記二作との相違――すなわち「日本的風景」に対する態度のちがいは明白だった。『Helpless』はまずドリーやパンを多用しカメラがよく動くことも特徴的なのだが、北九州のロケーションを上空から見おろす冒頭の真俯瞰空撮は音楽効果も相まってあからさまに不穏な雰囲気を醸しており、やがて画面が左右に激しくぐらつきだしてしまうため飛行撮影というより落下の瞬間をとらえた事故映像に近いものになってゆく。これはほとんど「日本的風景」に喧嘩を売っているにひとしいイメージだった。
 最初に売った喧嘩にどう決着をつけるか――青山真治のフィルモグラフィーは、そのストーリーに沿って進展していったのではないか、というのがこちらの解釈なのだが、現時点での結論らしきものを述べておけば、いちおうの和解 ﹅ ﹅は成立したのだと考えられる(映画でも音楽でも、第一印象が悪かった作品に触れなおした際、好感を持ったことを青山さんはよく「和解」と表現していた)。
 その表明は、待ちポジ構図の傑作たる『EUREKA ユリイカ』ではなく(むろんラストの投石の弔いは必要な通過儀礼だった)、ジャンプカット編集が駆使される『サッド ヴァケイション』で浅野忠信とオダギリジョーがふたりで山にのぼり、眼前にひろがる風景について会話するシーンにこめられているように思える。このあたり一帯は、ハワイから流れてきた珊瑚が堆積してできているのであり、島国日本じたいもまた同様に寄せあつめで形成された環境なのだとそこでは語られている。見すてる者と見すてない者の対立劇を描いてきた北九州三部作の最終作が、暴力性に満ちた陰惨なドラマが展開される反面、妙に明るい印象をもたらし、コメディータッチの場面さえ有しているのは、喧嘩相手との和解に動いた作品だったからなのかもしれないという気にもさせられる。仮にそうなのだとすれば、成熟史のひとつの転換点として記憶にとどめておきたいと思う。

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