見出し画像

私は文章のムダン(무당)になりたいのかもしれない

今日のタイトルはいったい何?という説明の前に、ちょっと昔話をしたいと思う。

小学生だった頃、私は心霊好きな「オカルト大好き少女」だった。
心霊番組がある日は家族の反対を押し切ってTVチャンネルを死守する。神秘や心霊を取り上げている雑誌「ムー」の定期購読するようなちょっと、いやかなり痛い小学生である。

当時、霊視でズバッと言い当ててしまう霊能力者の宜保愛子センセイは、私のスーパースター的存在。

同級生がキャーキャー言ってるアイドルの良さは全然わかんない。けれど、宜保センセイはすごい。とにかくすごい。どうしてみんな宜保センセイの凄さがわからないのか。

そんなことを内心思っていながらも、あまり周囲に言えた話ではなかったので誰にも言えず過ごしていた。
小学生でありながら隠れ宜保愛子ファン。マニアックだ。

だけど成長していくにつれ、大好きだったオカルトに興味をなくしていく。いつしか心霊番組も雑誌「ムー」も、そして宜保愛子センセイも記憶の中だけの存在になっていった。

「先生、ムダンって知っていますか?」

小学生から早20年あまりが過ぎ、結婚後なぜか韓国に住みながら日本語教師をやっていた。

いつもの日本語上級クラスの風景。
日本語ペラペラの大学生と社会人で構成されるこの日は、日本語で近況を発表する授業だった。

「ムダン?はじめて聞きましたが、ムダンとは何ですか?」
「ムダンとは神が降りた人のことです。この前行ってきました。」と生徒さんは話す。

神が降りる、なんだそりゃ。行ってきたとは?

生徒さんの話を総合するとこうだ。
ムダン(무당)とは、巫女や霊能力者の位置にあたる存在らしい。

韓国には昔から「神が降りる(신내림)」という心霊現象があるそうだ。
ある日突然、普通の人に神が降りてくる。誰でも神が降りるのではなく、神を受け入れる「器」がある人だけが選ばれる。

神が降りてきた人には霊能力が与えられ、ムダンとなる。神が乗り移るので霊が見えるようになり、人の過去、現在、未来を言い当てるそうだ。
日本で言えば恐山のイタコの「口寄せ」のようなものだろうか。

特に神が降りてきたばかりのムダンは霊能力が強く、未来を視てもらおうと人が殺到するのだという。


「すごいですね。実際に視てもらってどうでしたか?」
「何も教えていないのに当たるんです。今までの悪かった出来事をそのまま言われました。結婚はまだできないと言われましたけど(笑)」

すごい、すごい!ムダンは韓国版宜保愛子センセイか?

いつのまにか授業を忘れて生徒さんの話に熱中してしまい、昔の心霊好きの血が騒ぎだす。

絶対行きたい! ムダンに会いたい!!
目の前で神秘が見れる!!

「先生、だったら今度一緒にムダンに会いに行きましょう。私が予約しますよ」
そうやって、その生徒さんとムダンに連れていってもらう約束をした。

しかしその生徒さんは急な転勤で日本語教室をやめてしまい、未だムダンに会えないままだ。



で、今回のnoteのタイトルの話に戻る。

なんでこんな心霊やムダンの話をしたのかと言うと、ムダンと物書きって実は共通点があるのでは?と思ったせいだ。

だって、ものを書いていると何かが「降りて」くる瞬間があったり、霊能力のように物事の裏側を見透かす力が必要だったりすることが多いと感じる。

たとえば、経験が多くはないがクライアントワークでのライティングの場面。
クライアントさんの「こういうものを書いてもらいたい」のは指示書だけでは汲み取れない事が多々ある。

だからクライアントさんにガンガン質問してライティングの方向性を確かめる必要があるし、クライアントさんが本当に欲しているものを一種の霊能力めいたものを発揮しながら記事制作をする。

さらに私が今書いているこの文章。
本当は音楽記事を書こうと思っていたのに、今朝歯磨きしていたらコレが「降りて」きちゃったので今、こうして書いている。なんなんだろうね、本当はこんなことnoteに書くつもりじゃなかったのに。

もしかしたら、私は文章のムダンになりたいのかもしれない。

クライアントワークではクライアントさんの欲する意図の裏の裏まで汲み取る能力を発揮。ときどき頭の中に「降りて」きたものを頼りに文章を紡ぐ。
まさに理想的だ。

しかし現在の私はまだまだ文章力不足。どうやら実力不足でなかなか文章の神が降りてきてくれないらしい。

ムダンになるためには神を受け入れる「器」は必要なように、文章の神に選ばれるためには「器」を創り出して磨くしかない。

神様のいけず!と愚痴も言いたくなるけれど、今はコツコツ積み上げていこう。
いつか文章の神に選ばれるために。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?