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コロナが映す日本人と個人の自由

 僕は千葉県の市川市に住んでいる。毎日4時半になると、町内をカバーする大型スピーカーから繰り返し同じ放送が流れていた。


 「4時半になりました。子どもたちはおうちに帰りましょう。地域の皆様も見守りをよろしくお願いします」。


 まあ、毎日毎日ご苦労さまだね、ぐらいに思っていたのだが、新型コロナウイルスの感染拡大で政府が緊急事態宣言を出した4月上旬からこの放送はなくなった。代わりに、こんな放送が流れるようになった。


「新型コロナウイルスの感染が拡大しています。不要不急の外出は控えましょう」。


 その放送が、5月に入りさらに変わった。多少うろ覚えだがこんな内容だ。


「新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、一丸となって協力しましょう。今が頑張りどころです。外出はなるべく控えて家にいましょう」。


 皆さんはどう思うだろうか。

僕は正直言って非常な違和感と恐れを感じる。特に、「一丸となって」なんてやばい表現を安易に使って欲しくないのだ。


 もし、コロナの流行が収束せずに6月、7月、8月と続いたら、放送の内容はどう変わっていってしまうのだろう。


「コロナの猛威に打ち勝つために、全員一丸となって一億総火の玉となって立ち向かいましょう。外をふらふらマスクもせずに歩いているそこの非国民の方。逮捕させていただきます」。


 いつか来た道である。考えすぎだ、と思う人も多いだろう。

しかし、太平洋戦争の時も、みんな最初はまさか世の中があんな息苦しいひどいことになるとは考えていなかったのに、ずるずると事態が進んでしまい、最後はもうにっちもさっちもいかなくなってしまったのである。


 確かに、今コロナの感染拡大を防止するというのは「是」だろう。

しかし、だからといって、個人の行動の自由を制限する政府の「お願い」に、唯々諾々と国民のほとんどが従っている光景は異様に見える。


 なぜなら、戦後は、太平洋戦争の敗戦ですべてを失った反省の上に立ち、全体主義を改め、個人の自由を基盤とする民主主義に転換していくという思想に基づいて作られてきたからである。

まあ、明らかにわがままだね、というモノまで、「個人の自由」で時には片付けられてしまうぐらい、日本の社会にとって「個人の自由」は大切だったのではないか。

特に左派の人は個人の自由の侵害にものすごく敏感だったように思うのだ。


「まあ、コロナだからしょうがないよね」。


で済ませるのではなく、
「いや、そんな簡単に個人の自由を制約されては困る。もっと慎重であるべきだ」。


という声がまったく出てこないのが不思議ではないか。


 中国は強権で武漢を閉鎖したし、欧米は都市を「ロックアウト」までして感染拡大防止をはかった。その点、日本はそこまでしなくても感染拡大をある程度防止できているのは優秀だよね、という見方もある。

僕はちょっと違う。


 中国人にしても、欧米人にしても、そこまでしなければ好き勝手に行動してしまうから、強制しないと仕方ないのだ。


国にお願いされただけで、ほとんどの人が


「はい、わかりました。お国の言うことですから」。


と自由の制限を我慢する、というのは他の国の人には理解できないのではないか。


 そういう意味で、日本人のメンタリティは戦前、戦中からあまり変わっていないのだなあ、と思う。


 作家の山本七平が「空気の研究」で指摘したように、日本人には独特の「空気」というものがある。

「空気」という得体の知れない場の雰囲気、というか、流れ、というものがあって、いったんそれが走り出してしまうと、もう個人の力では止めようがないのである。


 山本七平を呼んでいる人は少ないはずの今の若者も、「空気」を読む、というのは世渡りしていく上での極めて重要なスキルである。

「空気」の読めない人は友人同士であっても、職場であっても、地域社会であっても、仲間はずれにされてしまうだろう。


 今の日本は、「コロナの感染収束」という大義名分がものすごい大きな「空気」となって流れていて、それに誰も逆らえなくなっているように思う。


 僕は先日、電車の中でマスクをしていない人が乗ってきて席に座った時、近に座っていた人が迷惑そうな目で見てさっと立って別の車両に移動するのを見た。

もちろん気持ちはわかる。でも、これがさらにいきすぎると、マスクをしていない非国民は逮捕しろ、となりかねないのだ。もし、そうなってしまった後で、


「いや、そこまでしなくてもいいんじゃないか」。


と思っても、空気がそうなってしまえばもうどうしようもない。


 このご時世に、在宅勤務でリモートワークもできないのは「良くない会社」、商店街がみんな休業して一生懸命我慢しているのに1軒だけ開けているのは「良くない店」。こんなご時世にまだ開店しているパチンコ店なんて言語道断。

それぞれの個別の事情は考えずに、安易にレッテルを張って差別してしまう傾向はないだろうか。


 僕は戦後民主主義教育を受けてきたので、個人の自由が最大限尊重される社会がいい、と思っているし、大切に守りたいと思っている。


 「コロナだから仕方ない」

で思考停止するのではなく、こんな時だからこそ先人が苦労して勝ち取ってきた個人の自由の重さについてもう一度考えてみる必要があるように思う。

ちょっとエッチな笑えるエッセイ 

ぷちえっち・ぶちえっち1〜30

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