見出し画像

ネットの普及はパラダイムシフトを起こしたが、コロナ禍は起こすか?

1.
 哲学者の浅田彰さんは、その著書の中で、ヨーロッパにおいて活版印刷の発明がパラダイムシフトを起こしたと述べている。それまで、人々の生活の価値観はキリスト教に対する信心であり、そして聖書を独占する教会こそが、何よりもの権威であった。
 ところが、活版印刷の発明により、一般人でも聖書を手に出来るようになった。そのため教会の権威は失墜した。パラダイムシフトが起きたのだ。

2.
 30年前くらいの日本を考えてみる。私は当時の時の権威はマスメディアであったと思う。出来事の1次ソースの入手と、それを加工した情報の大衆への発信は、マスメディアがほぼ独占していた。殆どの人々はマスメディアの提供する情報を拠り所に生活をしていた。
 しかし、インターネットが発達、普及することにより、一般人でも1次ソースの入手、大衆への情報の発信が可能になったのだ。

 日本には、報道する自由と共に、報道しない自由も保障されている。つまり、どの情報を発信し、どの情報を発信しないかを恣意的に取捨選択することも、やろうと思えば可能なのだ。
しかし人々は、インターネットを通し、各種様々な情報の入手、場合によっては情報の1次ソースの入手が可能になった。これにより、人々に各マスメディアが自社の「色」に合わせて情報の発信、場合によっては「加工」をしていたことが広く知られるようになったと思う。
 インターネット上の情報は玉石混合である。よって、今でもマスメディアの情報を信頼している、または、インターネット上の情報とマスメディアの情報を両方入手し補完している人も多数いるだろう。
 しかし、マスメディアのかつての権威は確実に失墜した。マスメディア各社の収益の変遷を見てもそれは明らかだろう。斯くして、インターネットの普及を通してパラダイムシフトが起きたと私は考える。

3.
インターネットの発達と普及は人々の繋がり方にもパラダイムシフトを起こしたと私は考える。この場合、インターネットというよりもSNSの発展と言った方が良いか。スマートフォンの普及もそれに拍車をかけただろう。それは人々の繋がりの在り方を変えた、という点だ。SNSが発展する前は、高校なり大学なりのコミュニティを卒業すれば、その後に会う人間というのは限られた存在だったろう。それがSNSが発展すれば、かつて同じコミュニティに属していたが、連絡先を知らない人と、SNSを通して、「友達の友達」、はたまた「友達の友達の友達の……」等といった過去は殆ど他人だった人と繋がる事が出来るようになった。
そうして、SNSを積極的に使う人間は急速的に人間関係が広がるようになったと思う(勿論、当人の考え方に依るところも多いが)。
例えば、40代になって、それまで一度も開かれていなかった同窓会が開かれ、そこで以前は繋がりがなかった人に対し、その同窓会で意気投合し、あるいは、同窓会後のSNSへの投稿等で意気投合し、良く会うようになった、というのは私の実体験としてもある。
そうして、SNSで繋がるようになった、昔の知人、或いは旧交はあったが連絡の途絶えていた人、極端な例では同じコミュニティに属していたが、ほぼ交流の無かった人とまで一緒に飲んだり遊んだりするようになる、というのは一般的に(特に40歳前後の人に多いかと思うが)良くある風景となったのではないだろうか。
インターネットの発展ひいてはSNSの発展が人間関係の在り方を変えるというパラダイムシフトを起こしたのではないかと私は思う。

4.
ところが、ここでコロナ禍である。我々は友達とも気軽に会って飲みに行ったり遊びに行ったりする事が出来なくなった。以前はネットでスケジュールを調整し、友達の友達まで含んだ飲み会を気軽に行えた。勿論、オンライン飲み会等の交流はコロナ禍の元でも行えるが、そこまでする人間関係というのも、再び限られたものになったのではないだろうか。
コロナ禍も一時、落ち着きを見せたが、それでもそんな状況下では、直接会おうとする人間はやはり限られることとなる。勿論、オンライン飲み会などの手段もある訳だが、やはり以前に気軽に会っていた時に比べれば手間がかかる。そもそも、そこまでして会いたい相手かという問題も出てくる。
極端に言えば、人は人間関係を取捨選択するようになったのだ。SNSの発展で人間関係が気軽に広がるというパラダイムシフトが起きた訳だが、果たして、コロナ禍の元、あるいはコロナ禍がおさまった後でもどういう変化を見せるだろうか。なにがしかの変化が起きるかもしれないと私は思っている。
コロナ禍は人間関係の在り方にパラダイムシフトを起こすだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?