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小説『鰓呼吸。』 #2( 茜 )

ーーこれにして正解だったな。

〝世界の名画シリーズ〟と名前のついた今年の手帳の表紙を眺めながら自分の選択に間違いなかったことを茜は確認した。

ピエール・ボナール「ミモザのある階段」の鮮やかな黄色がさっきトイレで偶然聞いてしまった後輩たちの会話でザラついた心を癒やしてくれる。

国立大学の商学部を卒業後、茜はずっと大手企業の社長や重役の秘書という仕事をして来た。そして今は、2年前ほどから在京テレビ局の取締役の秘書をしている。

都内の有名な進学校を出て、自力で大学受験に成功し、親元から離れるためにも誰もが知る有名な国立大学に進学した。TOEICは800点を超え、秘書検定を持ち、一般レベルだがMOSも取ったので「Word」も、「Excel」もそれなりに出来る。そして何より、秘書として従事する社長・役員たちから茜は評判がよかった。

ーー今度、美術検定でも受けてみよっかな。

茜は、子どもの頃から勉強が好きだった。
決められた目標に向けて勉強をして、その成果を試すのが性に合っているのだろう。今もスマホアプリで中国語学習をしたり、独学で編み物をしたり、日本史をわかりやすく学べると人気のPodcastを聴いたりと、学びに貪欲だ。

「堀之内ちゃん、今日の〇〇〇との会食は18時だったかな?18時半?」

「18時半なので、18時に正面玄関にタクシーをつけました。お帰りはご自分でタクシーを拾った方がいいとおっしゃっていたのでチケットだけ用意しました。ご使用になるようでしたらゲストの分もありますので。」

「ありがとう!じゃあ手土産と一緒に出る時、ぼくに渡して。」
「承知しました。」

学生時代はラグビー部だったという体格のいい役員(会社のナンバー2)が自室に引っ込むのを確認して茜は自分のためのコーヒーを淹れに席を立った。さっきの反省を活かして周囲に目を配りながら。

役員からの頼まれ事を済ませた後、秘書課がある1つ下の階のトイレに入ったのがよくなかった。

「え?堀之内さんって39歳なんですか?30代前半かと思ってました。」
「美魔女だもん、あの人。あと気を付けて、バツイチだからね。」

「うわ!バツありなんですか!秘書でバツイチってキツいですよね。あれ?もしかしてシングルマザーとか?」

「いや、子どもはいないんだって。でも何で離婚したのかとかは知らない。てか聞けなくない? めちゃくちゃキレイな感じ保ってるし、仕事超できるじゃん。スペック高いっていうか。」

「確かにー。完璧っぽいオーラありますよね、堀之内さんて。」

「ねー。あ!そうだ、奈美ちゃん、来週、広告代理店の人が多い食事会あるけど来る?美味しいワイン飲めるよー。」
「えー、いいんですかー?行きたいです。」

茜の話は、来週あるらしいハイスぺ男子がいそうな合コンの話に代わり、後輩たちはトイレを出て行った。

ーーそうか、奈美ちゃんたちは1つ下の階でおしゃべり休憩してるのね。

ドリップコーヒーを持参のマグにセットして、ウオーターサーバーから湯を少しずつ入れる。本格的ではないが、顆粒を溶くタイプのインスタントコーヒーが苦手な茜が比較的おいしいコーヒーを飲む苦肉の策だ。

ーーコーヒーマシンくらい買えばいいのに。まあ、会議とかでコーヒーが大量にいる時は頼んじゃうからな。

別のことで頭を満たそうとしても、さっきトイレで聞いた後輩2人のやり取りが茜の脳に居座ってどいてくれない。

ーーそっか、秘書でバツイチはキツいか。

マグカップを持ってデスクに戻り、手帳の表紙をもう一度見た。
「ミモザのある階段」の黄色い花に触れてみる。

茜はわかっている。美人なのではなく「キレイにしている」ことも。
自分が完璧っぽい、仕事ができる風の雰囲気を出していることも。
そして、それが秘書課の同僚から決してウケがよくないことも。

ハイスペックの男たちがいる婚活市場の飲み会に、茜のような存在は呼ばれないし、呼ばれたとしても行かないと決めている。先月、離婚後何度目かの見合いを母から勧められた時の気持ちが吐き気のようにせり上がってきた。

「マッチングアプリか何か知らないけど、そんなネットでバツイチの39歳に誰が寄ってくるのよ。」

親族ならではの容赦ない物言いに、茜は心底うんざりしながらも、笑顔で返す以外に乗り越える手段を知らなかった。子供のときからずっとそうだ。

「だから!もういいの!結婚は。」
「あんた、子供産まない気なの?一生ひとりで暮らせるほど甘くないわよ」

ミモザの黄色に触れながら手帳を開くと、今週末、祖母の7回忌があることに気づく。茜は自分の母にも、母とそっくりの叔母にも会いたくないが、当日はきちんと喪服を着て早めに会場に行くだろう。

出来るだけ余計な「お小言」をもらわないように。
茜にとって、母の心配も、叔母のおせっかいも、小言に過ぎなかった。

ーー最後に泣いたのいつだっけな。

「堀之内ちゃん!」

自室に引っ込んでいた役員がドアを開けずに茜を呼ぶ。

ーーまたパソコン関連だろうな。自分でググってくれよ。

毒づきながらも笑顔で対応する、そういう自分を茜はちっとも好きじゃなかった。



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