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言葉ってバカヤロー #ことば展覧会

 私の父は昔気質の大工で、いわゆる頑固な人でした。中学を出てすぐに修行し大工として五十年以上働きました。

 父は、私には大学を出て欲しかったようで、学費を全て出してくれました。とにかく父は家族の為に朝早くから毎日働いてくれました。自分の為の時間と言えば、野球のナイター中継を観るくらいでした。

 父が本や漫画を読んでいる姿を見た事がありませんでした。西部劇やアクション映画を一緒に観た記憶はありますが、それ以外のジャンルの映画を観ている父の姿は思い浮かびません。

 父はワイドショー番組が嫌いで観ませんでした。新聞は良い記事だけを母に選ばせて読んで貰っていました。おそらく、自分に読める字や読んで意味が理解できる言葉が少ない事、知っている言葉が少ない事を自覚していたのだと思います。

 反対に私は幼い頃から、あらゆるジャンルの本を貪るように読みました。国語辞典を隅から隅まで読むのが好きで、時には禁断症状が出た中毒患者のように文章や言葉を摂取していきました。理論武装をしてディベートで相手を論破することに長けていきました。

 父は受話器の向こうの相手に「バカヤロー」とよく怒鳴っていました。私もよく「バカヤロー」と怒られました。言葉を知らない父は何かあるとすぐに「バカヤロー」と言っていたように思います。

 小学校の絵画コンクールで金賞を獲った時も「バカヤロー」と言って満面の笑みでヤスリのような頬をすり寄せてきました。

 中学校の定期テストで良い点を獲った時も誇らしげに笑って「バカヤロー」と缶ビールを開けました。

 高校生の時に初めて朝帰りをすると、怒りを堪えた背中をこちらに向けて「バカヤロー」と静かに言いました。

 私は父の「バカヤロー」があまり好きではありませんでした。

 大学に合格した日、卒業した日、就職が決まった日、結婚式の日。父は全ての門出で「バカヤロー」と目と鼻を赤くして泣いて喜んでくれました。

 それでもどこかで父の「バカヤロー」は好きになれないままでした。


 母が先に逝った日には、母と(おそらく自分にも)向けて「バカヤロー」と言っていました。
 
 それからめっきり大人しく、萎んでしまった父の最期の言葉も「バカヤロー」でした。

 私は、病床の父の側で父への想いや後悔や感謝を伝えようと、涙と鼻水をそのままに自分が知り得た言葉を尽くしました。

 父には私の言葉の大半が理解出来なかったかもしれません。それでも父は優しい顔で聞いてくれました。母に新聞を読んで貰っている時の顔でした。そして父は小さく「バカヤロー」とだけ言って穏やかに息を引き取りました。

 私は父の「バカヤロー」があまり好きではありません。

 でも、どうしようもないほど、またあなたの「バカヤロー」が聞きたくなる時があるのです。



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 これは、拝啓 あんこぼーろさんの企画に参加した2作目のショートストーリーです。誰かがどこかで書いていそうな話かなとも思ったのですが、書きたくなってしまいました。楽しんで参加出来ました。

 拝啓 あんこぼーろさん、ありがとうございました。

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皆さん、良いイブをお過ごしください。


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