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国語を学ぶということ

小学5年だったから6年だったかうろおぼえなのだけど、森鴎外の『高瀬舟』が国語の教科書に載っていて、その授業で「喜助の行動は正しかったのか」を考える時間があった。
病に苦しみ自害を試みたが死にきれなかった弟に、とどめを刺した喜助。もちろんそれは弟の希望だった。
喜助の行動は殺人という悪事なのか、それとも弟を苦しみから救った善行なのか。
当時の私はいかなる理由があっても人を殺すのはいけない、と意見を述べた。命というものは何より大切で、どんな大義名分があろうとそれが覆ることがない、と当時の私は本気で考えていた。

中学生になって、国語の授業で松尾芭蕉の『奥の細道』を習った。「無常感」という概念を知った。
移ろいゆく世界の儚さ、その美しさを芭蕉は俳句に残している。
しかし、当時の私にはその良さがよくわからなかった。その頃の私は何年経っても変わらないものが美しいと思っていた。変わらない友情や絆、思い出、あるいは宝石の輝きや老いを感じさせない美貌など。
先生が、「中学生でこれを分かる人はなかなかいないよ」と言っていたのを記憶している。

今、私は。
喜助の立場だったら同じことをするかもしれない。生きていることがどうしようもなく苦しいことがあることを、あれから数十年かけて理解したから。
宝石よりも花束をもらう方が嬉しい。やがて枯れたり失われるとしても移ろいゆくものたちが自分の日々に寄り添ってくれることを理解したから。

このために、国語の授業はあるのではないか。
学校を卒業したら終わりではない。国語の教材は今日まで私の思考や感受性の基礎となり心を支えてくれた。そしてこれからも私に新たな成長と気付きを促してくれるだろう。もう手元になくても、あの物語が、随筆が、詩歌が、私の中に息づいて、今なお影響を与えている。そのどれひとつ欠けても今の私はいない。明日の私の成長はない。

私は幸せな児童だった。生徒だった。十五志学の歳までに素晴らしい教材と先生に出逢えて。
国語、特に古典教育が不要だとか、文学部を廃そうとする動きに、だから私は賛成できない。さまざま作品を通して国語を学ぶことこそ、人間を人間たらしめる教育だと思う。

私たちが子どもの頃より遥かに目まぐるしく刺激的で心惑わされることが多いだろう現代の若い方々に、どうか素晴らしい物語との、随筆との、詩歌との出逢いがありますように。生きづらいと言われる世の中において、きっとその体験が、彼らの未来を豊かなものにしてくれるから。

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