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フッサール『デカルト的省察』岩波文庫 第三省察 読書メモ

第三省察

第二十三節

  • 存在するかしないかとか、およびそれに類する述語は、純粋に思念されたものとしての思念されたものに、端的な対象ではなく、対象的な意味に関係している。

  • それに対し、そのつどの思うことに関係するのは、もっとも広い意味においての、真であるとか偽であるとかいった述語である。

  • ここには現象学的起源を持っている。

  • 存在するとかしないとかの綜合に関わる出来事はより高次の志向性であり、このような志向性は、本質からして超越論的な我(エゴ)の側から作り出される、理性の作用および相関者として、あらゆる対象的な意味に排他的な選言という仕方で関係している。

  • 理性というのは、単に偶然的事実的な能力でもなければ、可能的偶然的事実を指す名称でもなく、むしろ、超越論的主観性がもつ普遍的で本質的な構造形式を表している。

  • 理性は確認の可能性を指し示し、そしてこの確認は究極的には、明証することや明証を持つことを指し示している。

第二十四節

  • 普通の意味での経験は、或る特別な明証であり、およそ明証というのは、もっとも広いが本質的に統一的な意味での経験のことと言えよう。  

  • 明証は、何らかの対象についてはなるほど意識のせいに偶然に起きる出来事に過ぎないが、にもかかわらず、それは一つの可能性を示している。

  • しかも、あらゆる何らかのすでに思念されたものや思念されるべきものに対して、努力し実現しようとする意図の目標という可能性を表しており、したがって、志向的な生にとって普遍的で本質的な根本特徴を表している。

  • およそどのような意識もすべて、それ自身が明証の性格を持ち、その志向的対象に関してそれ自身を与えるものであるが、それとも、本質からしてそれ自身を与えることへの移行を目指しており、それゆえ本質からして「私はできる」が及ぶ範囲に属する確認という綜合を目指しているか、どちらかである。

  • 超越論的還元という態度において、次のように問うことができる。意識には、思念された対象がその同一性を維持したまま「それ自身」という様態で対応しているか、ないし対応しうるか、またそれはどの程度なのか。あるいは、同じことであるが、まだ規定されていないまま予想されたものがよりいっそう詳しく規定されるとき、前提されていた思念された対象がそれ自身としてどのように見えるはずであるか、と。

  • 非存在とは、端的な存在ないしは存在確認の一つの様相、しかも、いくつかの理由から論理学において好まれている様相に過ぎない。

  • 端的な存在が可能な存在、蓋然的な存在、疑わしい存在というように、その他の様相に変化するのと相関的に、明証も様相的に変化する。

第二十五節

  • 想像の側では、可能性の新しい普遍的な概念が生じ、それが、端的な存在への確信から始まって、あらゆる存在の様相を単なる想定の可能性という仕方で(あたかもそうであるかのように思い浮かべるように)変化して繰り返される。

  • それが行われるのは、(現実にある、現実に蓋然的である、現実に疑わしい、無効になる、等々といった)現実の様態に対立する、純粋に想像的な非現実という様態である。

  • それぞれの様態には、思念された対象しかもその都度の様相において思念された対象についての、明証の固有のあり方が、また同様に、明らかにすることの固有の潜在性が対応している。

  • 明証にすることの一様態、不明瞭な思念からそれに対応する「眼前に具象化する直感」へと進む綜合の道を実現する一様態、を表している。

第二十六節

  • 形式的存在論的な普遍性をもった根本概念は、意識の生が普遍的にもつ構造の規則性を指示しており、この規則性によってのみ真理や現実が私たちにとって意味をもち、そもそも意味をもつことができるようになる、という認識である。

  • 明証的に同じものとして捉える綜合の歩みが明証的に与えられたものと対立することになれば、いま通用しているものを直ちに放棄しなければならず、現実の存在について確信を持つことができるのは、正しいまたは真の現実そのものを与えてくれる、明証的な綜合によってのみだ、ということである。

第二十七節

  • そのものが見てとられた現実であれば、私は「繰り返し」、新しい明証の連鎖のなかで最初の明証の再生として、そこに立ち返ることができる。

  • 例えば、内在的所与の明証の場合には、開かれた無限性を伴う直感的な早期の連鎖という形式で、そのように立ち返ることになるが、この開かれた無限性が潜在的な地平として「私は繰り返しそこに立ち返ることができる」ということを可能にする。

  • 存在するものはすべての意味において「それ自体」であり、個々の作用の偶然的な〈私にとって〉というあり方に対立しており、同様に、この広い意味での真理とはすべて「真理自体」のことである。

  • 〈自体〉という語のこの広い意味はそれゆえ明証を指しているのだが、それは体験の事実としてではなく、超越論的な自我とその生に基礎づけられた、ある潜在性としての明証である。

  • しかも、それはさしあたり、同一のものに関連付けられた無限の思念がもつ潜在性を指示しているが、さらにはまた、それらの思念の確認がもつ潜在性を、それゆえ、体験の事実として無限に反復可能な潜在的明証をも指示している。

第二十八節

  • 私たちにとって実在的で客観的な世界が全体として直感的になり、また何か或る個別的客観についても直接に直感的となり、そこにあることになるのは、明証の全体によってであるが、上のことはこの明証の全体に少なからず当てはまる。

  • そこに属する明証は外的な経験であり、このような経験の対象については、それ自身を与える他の仕方というのは考えられないということが本質的必然性だとわかる。

  • しかし他方で、この種の明証には本質的に一面性が属していること、より正確に言えば、充足されていないが充足されていることを必要とする予測、それゆえ、それ相応の潜在的な明証を参照するよう指示している単なる思念の内容、これから成る多様な形態の地平が属しているということ、このこともまた同様にわかるだろう。

  • 明証がもつこの不完全性は、明証から明証へと、綜合を実現していく移行において完全なものになっていくが、考えられるどのような綜合も十全な明証として完結することなく、むしろいつまでたっても、充足されない予測的思念と付帯的思念とを必然的に伴っている。

  • それと同時に、予測にまで及んでいる、存在の信念が充足されなかったり、「それ自身」という様態で現象するものがやはりそうでなかったり、あるいは別様であったり、という可能性がいつも未定のままになっている。

  • それにも関わらず、外的経験は本質的にそうした対象やあらゆる客観的な実在に対して、唯一の確認する力をもつものであるが、それはもちろん、能動的または受動的に進行する経験が相互に調和を持った綜合という形式を持つ限りのことである。

  • 超越的なものがすべてそれと不可分なものとして構成されるのは、意識の生においてでしかないこと、そして、この意識の生のみがとりわけ世界の意識として、自らのうちに不可分に世界という意味とともに「この現実に存在する」世界も担っていること、こうしたことに何ら変更も加えるものではない。

  • 究極的には、経験がもつ地平を露呈することのみが、世界の「現実性」と「超越性」とを解明し、さらに世界が意味と存在現実性を構成する超越論的主観性から不可分であることを証明することになる。

  • 世界内部の現実的な客観は、そして世界そのものはなおさら、無限の理念(イデー)なのであって、それは調和的に統合されるべき経験がもつ無限性に関係する無限の理念ー完全な経験的明証という理念、可能な経験の完全な綜合という理念、これらに相関的な理念ーなのだ、ということを。

第二十九節

  • (あらゆる様相に応じた)真の存在や真理と言った名称は、およそ超越論的な我(エゴ)としての私にとって、思念された対象と思念されるべき対象全てに対して、無限の多様性を持った現実的および可能的な思うこと(コギタチオーネス)の内部での構造的区別を表している。

  • つまりその対象に関係する多くの明証が、おそらく無限ではあれ一つの全体的明証へと結合される、という仕方で綜合的に関連し合っているような、明証の体系を指し示しているのである。

  • そして、それが行う綜合において、その基礎となる個々の明証のうちではまだ充足されていなかった予測的志向のすべてが、十全に充足されるに至るであろう。

  • 形式的に普遍的な研究、すなわち、対象一般といった形式的論理学(形式的存在論)に属する概念に留まる(それゆえ、対象のさまざまな特殊な範疇という質料的な違いには関わらない)ような研究と並んで、さらに、すでに示したように、もはや形式的論理学には属さないような、対象の最高位の範疇(すなわち領域)のそれぞれに対して生じる構成、という非常に大きな問題圏である。

  • 存在するものとして常に「与えられ」、そしてそのことに同時に含まれていることだが、常にそのようなものとして前提される緒領域、例えば物理的自然、人間、人間の共同体、文化、等々といった領域の、構成に関わる理論が必要になる。

  • 非客観的な(単に主観的な)対象が、最下層の対象的根拠から登って行って、さまざまな段階で基礎を与えられていることが示される。この最下層の根拠として絶えず機能しているのは、内在的な時間制であり、自らのうちで自らに対して構成される、流れいく生である。

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