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ゆっくり本を読む会の主催者です。 https://note.com/slow_reading

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  • フッサール『デカルト的省察』

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フッサール『デカルト的省察』岩波文庫 第三省察 読書メモ

第三省察第二十三節 存在するかしないかとか、およびそれに類する述語は、純粋に思念されたものとしての思念されたものに、端的な対象ではなく、対象的な意味に関係している。 それに対し、そのつどの思うことに関係するのは、もっとも広い意味においての、真であるとか偽であるとかいった述語である。 ここには現象学的起源を持っている。 存在するとかしないとかの綜合に関わる出来事はより高次の志向性であり、このような志向性は、本質からして超越論的な我(エゴ)の側から作り出される、理性の作用

    • フッサール『デカルト的省察』岩波文庫 第二省察 読書メモ

      第二省察第十二節 過去把持と未来予持は、時間的幅を持った現在の地平をなす、「たったいま」すぎさったものを「まだ」保持する、あるいは、「いますぐに」来らんとするものを「もう」先取りする、非主題的な働きを指している。 あらゆる種類の現実の経験と、知覚、過去把持、想起、等々といった、その一般的な変化の様態には、それぞれに応じた純粋な想像や、それぞれ並行する様態をもった「かのように経験」が属していることを考慮するなら、純粋な可能性の領土にとどまるアプリオリな学問が存在することも期

      • フッサール『デカルト的省察』岩波文庫 序章・第一省察 読書メモ

        序章第一節 デカルトの『省察』の目標は、哲学を絶対的に基礎づけられた学問へと全面的に改革することだった。それに応じてあらゆる学問を改革すること。哲学はさまざまな学問の非自立的な構成要素。 学問は体系的に統一され、初めて真正な学問になることができる。 歴史的に見ると諸学は真正さを欠いている。 デカルトは諸学を普遍的に統一することを目的として、主観に向けられた哲学を使用した。 この主観への転向は、2つの段階において行われた。 第一に自分の信じてきた全ての学問を転覆させ

        • 僕は文章がかけない2

          村上春樹はこう語ったあと、8年間という長い間、口を閉ざし何も語れなかった期間があったことを告白する。そして、その期間を経たあと不安を残しつつ語りはじめる。なぜ自分は語れないという所から始めなくてはならなかったのだろうか?僕なりの解釈を話すと、村上春樹の文章を書く上での倫理ではないのだろうかと思う。 僕は、SNS上に書かれている文章を読む度に困惑してしまうことがある。なぜ、皆あんなにも饒舌に文章を書けるのであろうか?たとえば戦争について語ることにしても、ある種の困難さつきまとう

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          僕は文章がかけない1

          柄谷行人の「夢の世界」という文章を読んでいてこんな一文を見つけた。 さらに上記に関してW・H・オーデンを引用する。 僕は本を読んだり、映画を観たりなどしてそれに強い感染を受けると、何かしらアウトプットしたくなる。そう思い文章を書こうと思い立つが、何かしら不自由さを感じてしまい、文章が途絶してしまった経験が何度もある。なぜ僕は文章がかけないのか?ずっと考えていたが、上記の文章を読んでなにか腑に落ちた部分があった。因果律に落とし込まなくては文章化できないからだ。とくに因果律に

          僕は文章がかけない1

          小津安二郎と高畑勲の淋しさ について

           小津安二郎と高畑勲のフィルムを観るたびにある種淋しさを感じてしまうのはなぜだろう。彼らは、我々と同じ人間社会の一員ではなく、その外側にある空白地帯に彼らはいる。そこから人間社会を観察した結果が、彼らの作品のように感じる。その空白地帯は、神の視点ではない。そこには延々と続く"無"しかないのだ。その場所に対しぼくは恐ろしさや、淋しさ、狂気を覚える。例えば高畑勲で言えば『火垂るの墓』にておじさんが清太に対して社会復帰を促すシーンの清太の表情、節子が死んだときの清太の無表情な顔..

          小津安二郎と高畑勲の淋しさ について