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【武士の一分】元祖イケメン、木村拓哉主演の最高峰!男として、社会の構成員として、人間の尊厳の為!命を賭するキム拓の一分!山田洋次監督のキャスティングの妙🎶、良い男には勝てないなんて🎶🎸か?殘念~😭切腹!😂

#映画感想文


何故、ハリウッドから映画の歴史が、スタートして以来、いやそれ以前の、ギリシャのホメロス、歌舞伎と、人が演じ、それにカタルシスを感じようと対価を払う人が出てから、つまり、演劇がビジネスとして成立したときから、主演は、決まって何故、二枚目、イケメン、美男美女なのか?それが、ぼくにとつては、疑問でした。そして、その心の霧を晴らしてくれたのが、キムタク!主演の武士の一分です。その謎解きが出来た瞬間、それは、日本アカデミー賞を、総なめした、武士の一分の授賞式での、山田洋次監督スピーチで、彼が一言でした。「主演はあくまで木村拓哉!、主演が、評価されなければ意味がない!それでは作品として意味が無くなる!」と発言した瞬間!です。
山田洋次監督は、アカデミー賞を取るために映画を制作してる訳ではありませんし、それを作る為に、山田組を始め、多くの人の血と汗の結晶として、作品は出来上がることも、踏まえた上での発言でした。。サッカーを例にするなら、一人のストライカーが得点を上げる為には、多く仲間の献身的犠牲的プレーが要される。まさに、一将校成りて、万骨かる!多くのスタッフに支えられてこそのスター!スターキム拓がスターでいられる所以である。そのことをを理解している彼は、これまでとは、異なる、いわゆるイケメン俳優キムタクのイメージを払拭し、監督の意図を汲み取り、盲目の演技をする為に、ストイックに撮影前から、役作りにコミットしていたらしいです。
監督のアカデミー授賞式での、件の発言は、檀れい、笹野高史さんをはじめ、各賞を総なめした、[武士の一分]の主役木村拓哉へのねぎらいの言葉であったとは思いますが、、、それ以上に、監督の意図していた事が外れた事、狙いを汲み取って貰えなかった事への、遺憾の表明であったと私は、今、認識してます。その狙いとは、出演者をはじめ、山田組の全てのスタッフに、周知されていて、皆さん、同じ思いを感じてらしたのではと。。。回りくどくてなりました。
結論を急ぎます。何故、ハリウッドを中心に映画ビジネスが発祥して以来、主演は、美女美男なのか!
当たり前の事ですが、彼らの集客力?
それもあるでしょう。
でも一番の答えは、
ズバリ、
心理学用語を借りますが、と

ハロー効果!
その一言に尽きる!
「人は見た目が99%」
というベストセラーがありますように、
人は、その人の話す内容、話す言葉より、
第一印象で、見た目で、その人を判断します。
また、世間の評価、肩書で、物事を判断しがちです。

見栄のいい、維新の会の県知事たちが、多数選出されるのも、、ハロー効果の最たる現象!
政策よりも、その人に持っている印象に、一票を投じます。
就職も、学歴重視ではありますが、それ以上に、顔採用なのも、悲しいかな、現実のようです。
特に、スキルを持ち合わせなていない、一般職、営業職に就くであろう一般文系学生にとつて、、、
それに人事担当者も人間ですし、いくら人事担当者とはいえ、その人の持つ属性を短時間で把握するのは不可能です。
予め理りを入れておきますが、これは一般論でありまして、全ての事柄に当てはまるわけではありません。
然しながら、ハロー効果!というものが存在し、
おおかたの方は、見た目で人を判断するという現実があります。同じ人間がスーツ姿で発言した時では、説得力が違う。という実験結果が出ている。

所謂、ハロー効果!
それは、日常のいたる所で、利用されています。
特に、ビジネスシーンにおいて、それは顕著で、その
最たるものが詐欺師!
道理で被害者が耐えない訳です。
詐欺師がビジネスか?はさておき、

エンタメビジネス於いても、例外ではなかったという話で、
洋の東西を問わず、
主役がイケメン、
特に映画ビジネスでは、顕著なのは周知の通り。
では、イケメン、それもドル箱イケメン俳優でなければならないのか?
論を俟たない!
ですよね。

イケメンで、而も、ドル箱スターである事、
即ち、社会的に認知度が高い、二枚目は、
社会的信用度も実際も高く、
しかも、見栄の良い俳優の放つセリフは、
そうでない俳優より、説得力がある。
ドラマは、所詮フィクション!
セリフも嘘つき!
細かく指摘されたら切りがない、ご都合主義にできたもの。
それが、ドラマ。
オーディエンスも、それは、百も承知。
如何に、虚構の世界を、創り手と受け手の間で作り上りあげられるか。
監督の手腕にかかっており、
フィクションの世界なら、とことんフィクションに、
徹することによって、
リアリテイさを増す事ができる。
ある意味、夜のビジネスに類似してる側面がある。

疑似恋愛の場所。
その空間、その時間、
騙されたいゲストと、如何に虚構の世界を構築出来るか、ビジネスパーソンとしてのプロデュース力が試される。
そこに、日常、現実が入り込む余地はない。
嘘で固められた世界。
承知の上で、とことん嘘を上塗りする関係性で出来てる非日常の世界に現実の入り込む余地はない。
しかしながらリアリティぽさは、その関係性の中で更に加速されていく!

色即是空!





所詮、この世に実体はない。

空っぽの世界。嘘を信じること、それが出来てから人間の歴史が始まり、その能力によって文明が進化してきたと言われています。

その下地の上に、今日のエンタメビス、ショービジネスが確立されているのです。

話しを、キム拓に戻します。


武士の一分に関しては、
今までの、キム拓の演じてきた物とは、正反対の役柄。
キム拓、自信家、出来る男、チャラい、男からしたらいけ好かない奴!今嫌いなタレントランキングの上位!
といった、彼のイメージとは対極にある役柄。

武士の一分、端的に言えば、
社会構造、ヒエラルキーの下位のものの、お上に対する反骨精神!
社会に対しての、アンチテーゼととしてのキム拓の、
不条理な上司に対する復讎の話。

妻を手籠めにされた、毒味を仰せつかり、失明させらた上に、解雇された武士、つまり下級役人、つまり下級官僚の私怨を晴らす
復讎の話。

とは言え、、日本の、今も昔も、変わらない、官僚主義的社会、古い慣習、古い常識に縛られた社会。本当の意味での?民主的社会?では無い、おサムライ文化が未だ色濃く残る現代日本と。よく言えば忍耐強い、唯々諾々と、柔順に従う住人たちへのアンチテーゼ!としての復讎劇!とも言える。

キム拓は、上司である家老に、最後の一太刀は振るわない。
家老役の坂東三津五郎の判断に任せる。
深手を負わされた三津五郎は、武士の面目の為に、
腹を切る。
それが三津五郎の武士の一分!
自分のプライド?世間体の為に腹を切る。

翻って、キム拓演じる主人公は、盲目、下級武士故、上司の為に、失明し、簡単に解雇される。
お殿様のお情けで、僅かながらの禄を食み、妻に愚痴を履きながらも、妻の世話無しで生きていけない、東北訛の乏しい下級武士。

今までキム拓の演じてきた主人公や、SMAPの時のキム拓のイメージとは、程遠い、涙が出るくらい、悲しすぎる情けない役回り。

役者キム拓にとっては、ある意味。挑戦。新しい扉を開ける機会でした。
そこに、山田洋次監督の意図があります。
この映画の肝、それは監督のキャスティング!
主人公のキャスティング!こそすべてと、僕は受け止めました。
彼は、お情けで施しを受けて生きている、三津五郎の様なプライド?さえ待てない下級武士。

でも、そんな虫けらのように扱われていた男だが、
自分の為、家老宅に出向き、手当てを貰えるよう主君に進言してくれる様に懇願する妻檀れいを、家老の立場を利用して、家老三津五郎が妻を口車にのせ、自分のせいで、玩具した挙げ句、家老は進言どころか、それを酒の魚に妻を
笑い者に!自分だけがつんぼ桟敷で、城内では噂の種にされ、自分たち夫婦は笑いものにされている。と。


の事実を知ったとき、キム拓の表情が変化していく。

いつものキムタクの精悍な顔立ちに。それは、まさに武士の面構え。

女房にそんなことをさせて、ぬくぬく生きていたなんて、それじゃ犬畜生と一緒じゃねえか!

この一言こそ、武士の一文!

この世は、矛盾に満ち溢れた、不条理で、不合理な世界!
忍耐を強要される教育を施されてから、
我慢を強いられ、でも、生活の為に、現実を皆、受け入れて生きている。
けど、受け入れられない最後の一分!

最低限の命を賭けても、
守らなければならないものがある。
それがキム拓にとっての、

武士の一分!

三津五郎のそれとは大きく異なる。
安いプライドではないのは確か。
それは、愛するものなのか。
自分の大切な守るべきもの。
私は、キム拓の演技から、
それは、人間としての尊厳!であると受け取りました。

果たし合いも終わり、
離縁した檀れいも、下男笹野高史も帰って、誰も居なくなった部屋でひとりきり、
囲炉裏に牧をくべながら、
盲目の木村拓哉は、一人つぶやく、


もし、俺が、バカのままでいたなら、
もし、俺がバカのままだつたら、
家老も死なせなかったし、
妻を離縁して追い出すことなかったのか?

いっそバカのままでいたほうが、、、

いや、そんなことはねえ。。


この映画のテーマ、山田洋次の思いは、

キム拓のこのセリフに要約されている。

キリッ!と武士の表情になったキム拓。
やがて、やがて薄ら笑いを浮かべ、穏やかなキム拓の演技を超えた普通の男の素の顔。
素の木村拓哉の横顔に、

改めて、役者って、すごいなあ!と。

木村拓哉の役者魂に、感激!    

キム拓あってこその映画。
その思いが、アカデミショー授賞式の山田監督の発言に繋がっていると理解した瞬間でした。


所詮、フィクション、だからこそ、イケメンにしたのは、
オーディエンスか感情移入しやすくさせる意図があるのは確か。
もし、ではイケメンと真逆の、
俳優であってら、オーディエンスは、どう受け止めるだろうか。

恐らく、ルサンチマンに駆られた、弱者の社会に対する逆恨みと捉えられるだろうと思う。

そして、敵役も、二枚目歌舞伎役者三津五郎のセレクトは何を意味する?

これは、ただの個人的私怨を晴らす話しではない、事は、

最後のキム拓のセリフから察する事ができる。

三津五郎に対して、世間でのイメージ!テレビ時代劇の悪代官様のイメージはない。寧ろ、亡くなられたが、高感度の高い役者さん。日頃は、赤い隈取して、大向うを唸らせていた名門歌舞伎役者、所謂、歌舞伎用語で言う、二枚目。

三津五郎、キム拓の二人の敵対する二枚目の演技によって、

山田洋次監督のメッセージが、説得力を持って、伝わってくる。

そう、誰も、恨んていないし、悪者はどこにも、存在しない。

三津五郎もまた、キム拓と同じ、
社会の規範の中で生きる人間、
犠牲者、なのではないか、、公の中でいきる個人という名の、、

僕は、武士の一分という作品を通して、人の心を見つめ続ける、山田洋次監督の弱き者たちへの、眼差しを、

キム拓の七変化する、
眼差しに、見れた気がして、少し嬉しかった!

ラストシーンの、
盲目の、
薄ら笑いを浮かべた木村拓哉拓の閉ざされた瞳の奥に、、さ。


アラン・ドロンといえば、太陽がいつぱい!

に尽きるが、

現時点で、キム拓作品の最高峰は、

武士の一分!


世界的色男代表アラン・ドロンと、日本の元祖イケメン木村拓哉、


二人は、男からしたらいけ好かない、邪魔な存在!

だからこそ、どんなイケてる多くの役柄よりも、件の作品の中の二人に、


誰もが、共鳴し、、惹きつけられるのは、


その真逆のイメージを演じてる故に、

傑作映画の共通のテーマ、

世の中とは、なんと、不公平なのものなのか!

というテーマをより、鮮明に強調して、我々に訴えかけくる!のだが、


それは、単に二人が、イケメン俳優という理由だけでない。


我々の知り得ない、経験値からくるもの。

役者は、目ヂカラというが、


何処か、物憂げな瞳が、それを物語っている。


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