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三島由紀夫『煙草』

川端康成の賞賛を受けた、二十代の三島由紀夫の短編です。新潮の『真夏の死』の最初に収録されています。


本作の冒頭には幼年(少年)→大人への「出帆」についての章がある。可能性に溢れた幼年期のひとが、成功とか、獲得とかを経て大人になるけれど、その移行は不可逆に進んで、また世間は彼が「新たに生まれる」ことに大して興味がない。

「新たに生まれる」こと。三島由紀夫は遺作『豊饒の海』最終巻『天人五衰』の創作ノートに、本作で用いたのと同じ言葉でそのラストーー実際は使われなかったラストを表現している。

「出帆」。

船出。解脱。明るい方への転生。死と再生の瞬間。故郷との別れ、新天地との出会い。
彼のかのドラマチックな10〜20才までの経験の影響か、「出帆」は彼にとって終生のテーマであり続けたようだ。

さて、「煙草」。今やダメ人間の象徴として酒やパチンコと一緒くたにされているが、酒などとは明らかにその性質を異にしている。妖艶な・憂鬱を帯びた・どこか知的な・異国情緒(異界の情緒)のある煙草は、大人と子供を峻別する。

ゴリゴリ筋肉でなかった少年時代の三島由紀夫にとって、本作中で交流する「ラグビー部」なぞはほとんど敵のようなものだったろう。然しこれら憎悪が実は「負け惜しみ」だったんじゃないかと主人公は思い立つ。そう思ったら最後、彼らは対抗すべき者、ライバルだ。ちゃんと言えば追い越すべき先達であるかもしれない。彼らの本拠に赴いて煙草を吹かすことは、その煙、つまりは敵の強さの源のようなもの、その魔力を提供してくれる異界特有の果実を自らに取り込むようなものだ。彼はあたらしく力を得るに違いない。彼はそれを契機にまったく別人になり得る。

それまで憎悪していたものが突然仲間になる。このとき「子供時代」は敵になっている。しかし自らは依然子供で、それが呪わしい。色んな立場からそれぞれ色んなものを憎悪する、思春期の複雑な姿が重く紡がれていく。


ラストに取ってつけたように遠くの火事の描写がある。夢だったかもしれないと主人公は言う。
何が燃えているのだろう。「輝かしかった幼年の日々・幼かった自分」が遠く流れ去って終に燃えて消えようとしているのか?
タバコに火をつけることは、それらの幼さに火をつけることに等しいのか。タバコの極些細な熾火に熱せられて、自分の中に潜む「輝かしい幼さ」は死を目前にすすり泣いているんじゃないか。

それとも実はその火こそが「生」で、ようやく主人公は生をその内側に宿すことが出来た、という可能性も考えたい。とにかく火は燃えている。彼はこの時、どこかの放火犯のように「生きようと」思えただろうか。これは不良設定問題ではないかと思うが、三島由紀夫のファンはそういう未確定をこそ愛しているし、これからも愛し続けるんだろなと考えた。

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