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芥川龍之介『蜃気楼』

岩波『河童・他二篇』より
「5分ばかり経った後、僕らはもうO君と一緒に砂の深い道を歩いて行った。道の左は砂原だった。そこに牛車の轍が二すじ、黒ぐろと斜めに通っていた。僕はこの深い轍に何か圧迫に近いものを感じた。たくましい天才の仕事のあと ーーそんな気も迫ってこないのではなかった。
「まだ僕は健全じゃないね。ああいう車のあとを見てさえ、妙に参ってしまうんだから。」」

私はふと天才の像について考えた。芥川龍之介はヒョロい。「「たくましい天才」?なんのことだ」と引っ掛かったのだ。彫刻家か? 確かに彼らは筋骨隆々かもしれない。作家とは真逆の印象が確かにある。しかし彫刻家だって黒胆汁質の顔をしているような気もする。
芥川が「圧迫に近いもの」を感じたのは、例えば文学少年が運動部の連中を窓外に眺めてそう思うような、憧れと言いたくない、嫉妬のような憎悪のようなそんなものを感じたからじゃないかと思った。
ヒョロイのは時に引け目になる。特に筋骨隆々の者のそばに居る時は。「参ってしまう」。砂浜の淡い黄土色の面の調和を打ち壊すように引かれた轍は、それを見る繊細な人の目には侵害に等しい何かと感ぜられたのではないかと思った。また、そういう大胆な作意を表出するのは、往にして健康な、またはそれに加えて「精神的にマッチョな」ひとではないかと思う。
「砂の深い道」というのも面白い言葉遣いだと思った。その深さを計測してはいまい。踏んだ時に深さがあったのか?わずかな表面の奥に途方も無い蓄積が予感されるほどの砂浜、、、今度海に行ったら、小一時間砂を踏んでそんなものがあるか浜を問い詰めたいと思った。

蜃気楼。幻想的な、不気味な、空虚な代物。物珍しい代物。
漂流物。唐突な、想像を喚起させる、打ち捨てられた悲哀を帯びたもの。

磯の馨も、足に触れて解る夜の砂の上の海藻も、
闇夜の鈴の音も、漂流物から広がる連想も、「蜃気楼があるぞ」と伝える新聞さえも、皆幻の類いである。蜃気楼の類である。それ自体は空虚だ。なんならそんなものはありふれている。からっぽな人通りのない家並みもそうだ。だが、世界全体が虚しく思えてくると、その先は確かに絶望に繋がっている。そんな中で無人の大通りの向こうから真っ白の犬が現れる。孤独な犬と捉えるか、私たちのもとに現れた孤独を破ってくれるうれしい友として捉えるかで随分変わってくる。

ところで
「ある秋の午ごろ」という冒頭文も
「僕らは松の間をーーまばらに低い松の間を」
という文もズームしている。大から小へ「限定していく」文だ。しかもそのズームは急激だ。「秋」から「ひるごろ」なんて突飛なくらいだ。
でもラストの文
「そのうち僕らは門の前へーー半開きになった門の前へ来ていた」のズームはこれらと打って変わってちょっと明るい印象がある。「開けられた門までくる」という行い自体が明るさを帯びているのか、エンドだからハッピーであるべきという私の読者としての大偏見なのか、作者の演出か。

何から読んで良いかわからないと弁明して芥川龍之介を避け続けてきた。よく知識人の憂鬱を描いた人だと聞いた。本作中の暗い中で海藻を踏んづける描写でそれを思い出した。
「僕らの足は砂のほかにも時々海草を踏んだりした。」
身体が勝手に踏んだ、「足が勝手に踏んだ」という印象を受ける、奇妙な視点の文だと思った。「僕らは歩きながら時々海草を踏んだ」でも充分良いのに周りくどいではないか。しかし前者には、「頭が浮遊している感じ」を覚えた。理知が頭の中で活動していて、また理知が体の操縦席に座っている絵が浮かぶ。頭は世界に浮遊している。ものを考える頭だけが人間の全てである如く。たまに考え事をしすぎて体をあちこちにぶつける人には、これが良く分かるのではないだろうか。

「僕らの顔だけはっきり見える」という場面も印象的である。顔はみな本当はのっぺらぼうで、その人の個性とか、その人を見る視点となる人の持つ偏見だとかが作用して、そののっぺらに「顔」を結像しているんじゃないか、と考えると確かに気味が悪い。

まとまりのない話のように見えて憂鬱気味な浮遊感が通底していると感じた。あの肖像のキリリとした顔は今や文士の象徴のようなものだが、文体にもないようにも、まさに作家と言って然るべき風合いがあると思った。しかしながら文体についてはどこか飄々とした・軽やかな感があって、個性の捺印が探しづらい。今後長い時をかけて読みの眼を育てていこうと思った。

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