分岐しない未来
目覚ましが鳴った。
愛子は自分がベッドの上にいることに気づく。
暫く寝ぼけ眼で天井を眺めているうちに、ここが自分の家の自室だと認識した。
百合河ありさと握手して以降の記憶が全くと言っていいほど無い。
いつから家に帰ってきたのだろうか。
いつから就寝したのだろうか。
スマホを見ると、日付は翌日になっていた。
愛子は必死に昨日のことを思い出そうとした。
百合河ありさが超能力的な力を使ったこと、
何やらパラレルワールドの不思議な話をしたこと、それから、「生きてください」と言われて握手したことを。
順序立てて時系列通りに、昨日起こったことを思い起こすも、やはり握手以降の記憶が途切れている。
外では雀の鳴き声が響き渡り、窓からは朝日が差し込んでいる。昨日の恐ろしい話などなかったかのような、平和な1日の始まりである。
”この世界が、Z空間とかいう危険な世界線になっていくなんて、到底考えられないな。”
そう思いながら時計を見ると、7時半を回っていた。
愛子は飛び起きて、朝の支度をし、外に出た。
もしかしたら、昨日のことは夢なのかもしれない。
そう愛子は思った。
妙にリアルだったけれど、夢だと考えなければあり得ないような出来事だった。
昨日の後半の記憶がないのは不思議な感覚だったけれど、それは何か疲れがたまって一時的に記憶が交錯しているのだろうと、そう愛子は結論づけた。
学校に向かう一本道に来た時、背後から声をかけられた。
「愛子、おはよう!」
そう快活に挨拶をしてくれたのは何と、、、真奈美であった。
「お、、、おはよう」
愛子は困惑したように返した。
昨日までの意地悪な真奈美の姿などこにもなかった。
中学の時までの仲良かった時の雰囲気で、彼女は話しかけた。
「もうどーしよーテスト近いよー。
私、勉強してなーい。
愛子はいつもちゃんと勉強していてえらいよね」
「う、うん」
愛子は、真奈美の変化に驚きを隠せない様子で頷いた。
何か魂胆があって優しくしているのだろうか。
”もしかして、テストが近いから、私を利用しようとしている?”
疑心暗鬼になっていると、真奈美が愛子の顔を覗き込んで言った。
「どうしたの?
愛子、今日元気ない?」
真奈美の瞳は、驚くほどに真っ直ぐだった。
その瞳の奥に、裏があるようには到底思えなかった。
愛子は、人の顔色を伺うことには長けていた。
だから、真奈美の今の態度が素であるということは分かる。
”どうして、普通に話しかけてくるの?
昨日までの私達の関係性、忘れたの?”
困惑していると、真奈美が小さく悲鳴をあげた。
「あ!!やばい!」
そう言ってから、愛子の前で両手を合わせた。
「私今日、朝練あったんだった!
ごめん、先行くね!」
それから軽やかに駆けて行った。
一体、どういう風の吹き回しだろうか。
その時ふと、昨日の記憶(愛子は夢だと結論づけた記憶ではあるが)が蘇る。
”瀬利沢真奈美さん。
やりすぎです。”
”申し訳ありませんが、あなたには消えてもらいます。
時間軸における第Z軸空間の出現要因と特定しました。”
百合河ありさは確か、そんな風に言っていた。。。
愛子の背筋が凍りつく。
昨日の記憶はやはり夢ではない。
そうたった今確信した。
意地悪な瀬利沢真奈美は、、、消されたのか?
「おはようございます」
背後から品行方正な声で挨拶される。
百合河ありさである。
「おはよう、、、」
愛子はそう挨拶を返す。
ありさは、愛子の隣に並んで歩き始めた。
「あの、、、さ」
隣を歩くありさをちらりと見て、愛子は口ごもる。
が、思い切って聞いた。
「昨日のこと、夢じゃないんだよね」
「はい。夢だと思いましたか?
確かに、昨日は色々と事象操作をしたので、記憶が断絶的になってしまっているとは思いますが、安心してください。
後遺症などはないことを保障しますので」
ありさは、つらつらと答えた。
「真奈美が急に私に優しくなったのは、なぜ?
昨日のことと関係があるんだよね」
愛子は聞いた。
「意地悪な瀬利沢真奈美は、あなた、斎藤愛子が最初から生まれない世界線に以降させました。そうすれば、瀬利沢真奈美により、あなたが死ぬという世界線は生じなくなりますから。
代わりに、優しいままの瀬利沢真奈美が、こちらの世界線に以降して来ました。」
ありさは答えた。
その言葉を理解するのには、時間を要したが、理解が追いついた時、愛子は頭が真っ白になった。
歩を止めてぽつりと呟く。
「つまり、1人の人間が、世界線を交代したということ?」
ありさは、3、4歩ほど先に進んで歩を止めると、振り返り、愛子を真っ直ぐ見つめて、「はい」と頷いた。
「そんなこと、できるの?
あまり派手なことすると、パラレルワールドが不安定になっちゃうんじゃないの?」
愛子が戸惑いながら聞いた。
「派手というのは、何をもって派手だというのですか?
人間の主観的には派手な行為に見えても、パラレルワールドからすると些細なことなんです。」
ありさは答えた。
些細なこと。
昨日もこの子の口からそんな言葉を聞いた。この子は、いつもパラレルワールド的な規模で物事を俯瞰しているのだろうか。
だとしたら、人間の人生や生き死になんて、些細なことに感じてしまたうのだろうか。
愛子は、ふと疑問がわいた。
恐る恐る、それを口にする。
「百合河爆破事件も、、、パラレルワールド的には些細なことだったの、、、かな?」
ありさは微かに目を見開いた。内心動揺しているのが伺える。
彼女は愛子から目を反らし、背を向けて、歩き始めた。
愛子も後に続く。
あまりにも単刀直入に聞きすぎたのだろうか。気分を害してしまったかもしれない。
愛子は慌てて、ありさに言葉をかけた。
「あの、ごめんね。私、デリカシーなかっ」
「察しが良いですね。」
愛子の言葉に被せるように、ありさはそう言った。
「あなたの言う通りです。
私の父は、組織の一員として、Z空間を生じさせぬために、あの事件を起こしたのです。あの幹線モノレールに乗る乗客を生かすこともまた、Z空間派生のための小さな要因となってしまうからです。
そうした些細なバタフライ効果の芽を見つけて処分する、それが私達組織の役目です」
ありさは、真っ直ぐに前を見つめてそう言った。
いつものような事務的な口調の中に、微かな自信と誇りの感情を愛子は感じ、何とも言えぬ気持ちになった。
本当に、この子の言うことを全て鵜呑みにして良いのだろうか。
どんな残酷で非人道的なことでも、Z空間を阻止するため、の一言で片付けられてしまう。
そもそも、そのバタフライ効果の計算方法も教えてくれないし、教えられたとしても、愛子には理解なんて到底できるはずもないだろう。
その計算とやらを理解できない以上、何の確証もなしに、ありさの言うことだけを信じることができるだろうか。
ありさは、愛子の心中を推し量ったように言った。
「安心してください。あなたに協力してほしいことはただ1つ。
死なないでください。ただそれだけです。それ以外のことに協力を要請したりはしません。」
愛子はそれから、暫く黙って歩いていたが、意を決して口を開いた。
「あのさ、、、バタフライ効果って計算で求めるんでしょ。計算方法は守秘義務って言われても、やっぱり不安だな。
もし良ければ、身近なことで実証してくれると嬉しいんだけど。
も、もちろん、方法は聞かないよ」
「分かりました。
では、この前を歩いている田中君に起こる出来事を計算してみましょう」
ありさがそう言いながら、遠くに目をやった。
あっさり要求が通ったことに若干驚きつつ、愛子はありさの目線の先を追った。
数メートル程先を、確かにクラスメートの田中くんが歩いていた。
「分かりました。では、お願いします」
愛子はそう言って、片手を目元に持っていき、視界にありさを入れないようにした。
「何やっているんですか?」
ありさが、愛子の行動に戸惑いがちに尋ねた。
「計算するんだよね。見ないように」
愛子は片手をかざしたまま答えた。
「いえ、もう計算できましたから」
ありさはさらっと言った。
「え?!速いね。」
愛子は驚いて片手を放すと、ありさは話し始めた。
「田中君は今、靴の踵を踏んで歩いています。恐らく、毎日そうして歩いていたのでしょう。負荷がかばかり続けた靴は、靴底が剥離してしまいます。そして、田中君はバランスを崩して転んでしまうのです。そこに運悪く居合わせた怖い感じの男の人ついぶつかってしまい、激昂されるという未来が待っているでしょう。」
愛子は話を聞きながら辺りを見回した。この見晴らしの良い一本道には、学生と教員が歩いている姿しか見当たらない。見渡す限りでは、怖そうな男の人はいない。。。
「田中君をよく見ていてください」
ありさに言われて、愛子は前を歩く田中君に注目した。
彼は確かにふらついていた。
そして、次の瞬間、バランスを崩し前のめりに倒れた。
その瞬間、横道から突然出てきた男性と衝突した。
確かに、体格の良さそうな男の人である。半袖から見える腕には入れ墨があり、そして顔も強面。これは、田中にとっては一大事な出来事であろう。
「おいガキ!何ぶつかってんだ!?」
恫喝の声が響き渡った。
愛子は、自分が叱られている気分になり、びくんと体を震わせた。
「ご、ごめんなさい」
田中は縮こまりながら謝っている。
「す、すごい。本当に、百合河さんが言った通りになった。」
愛子は目を丸くして言った。
それから、ふとある考えが頭に浮かんだ。それをそのまま口にする。
「あのさ、もしかして、これって、計算で未来を予測できるってことだよね」
「違います。」
ありさはそう一言返した。
「え?どう違うの?」
愛子はそう言って首を傾げたが、田中を恫喝する男の声が耳をつんざき、愛子の意識はそちらに向けられた。
今、愛子とありさは、田中と男のもめている現場を通り過ぎようとしていた。
愛子はびくびくしながら、ありさは平然と前を見ながら歩き続け、そして、その恐ろしい現場を無事通過した。
「なんか、、、田中くん可哀想だね」
愛子が振り向きながら言った。
「可哀想だけど仕方ありません。私達が助けたとしても、意味ありません。」
ありさが淡々と答えた。
「確かに、私達は弱そうに見えるけど、警察を呼ぶとかしてあげることは、できるかも」
愛子が弱々しく言った。
しかし、ありさは、「意味ありません」と言って首を振る。
「助けたとしたらその瞬間に、田中君が誰からも助けられない世界線が分岐して生じてしまうのです。
昨日も言いましたが、この世の起こり得る事象は全て起こるのです。世界線が分岐しているから人間には気づかないだけです。
そして、私達組織の者は世界線が分岐しないようにコントロールすることができますが、第Z軸空間に関与しない事象で下手にコントロールするようなことはしません。」
「彼を助けたら、、、パラレルワールドが不安定に、なるから?」
愛子が聞くと、ありさは頷いて答えた。
「はい。下手にリスクを負いたくありませんから。」
その時、「どうしましたー?」という男性の声が背後から聞こえ、愛子は再び振り返った。
それは、巡回中の警察官の声であった。もめている田中と男性の元へと向かっている。
愛子は胸を撫で下ろして、前を向いた。
そんな愛子を見て、ありさは小さく吐息をつく。それから、前を見ながら暗い表情で言った。
「どうやら私達は今、田中君が警察官から助けられる世界線にいるようですね。しかし、警察官の来なかった場合の世界線も存在するわけです。結局何をしても、誰からも助けられなかった可哀想な田中くんは存在してしまうのです。」
愛子は、そう話すありさの横顔を見つめた。ひどく物悲しげな顔であった。
人間は、自分の行動が未来を変えると思い込んでしまう節がある。しかし、実際の世の中は、彼女の言うように、未来がいくつもいくつも分岐して、1つに絞ることなどできないのだろう。きっとありさは、組織の活動の中で、そのことを嫌と言うほど実感してきたのだろう。彼女のどこか空虚で淡泊に感じる振る舞いは、もしかしたらそんな世の中に対する1種の諦めのような感情からくるものなのかもしれない。
そんな風に考えていると、愛子は先ほどの会話を思い出した。
"あのさ、もしかして、これって、計算で未来を予測できるってことだよね"
田中君の身に起こることを言い当てたありさに、愛子は確かそんな風に言った。
"違います。"
とありさには返されてしまったが。
愛子はありさにそのことについて聞いてみた。
「あのさ、バタフライ効果の計算って、要は未来を計算で予測するってことだよね。でもさっき私が百合河さんにそう言ったら違うって言われたよ。どう違うの?」
ありさは淡々と答えた。
「全く違います。
ラプラスの悪魔という言葉を聞いたことありますか?ざっくり言うと、全ての物質の動きを予測することができれば、未来を予測できるというもの。
しかし、未来というのはパラレルワールドで、いくつもいくつも分岐しています。未来は予測するものではないのです。仮に予測するとしたら100%当たります。その世界線の中だけで考えたら当たり外れあると思いますが、パラレルワールド全体で見たら、外れることなんてないんです。
つまり、私達が計算で得られる未来というのは、分岐しない未来になるのです。田中君が転ぶという未来は、私が計算した時点で確定していましたから。
あの時点で、田中君が転ばない世界線など存在しなかったのです」
「じゃあ、私が仮に死んだとしたら、Z空間になってしまう未来は確定してしまうの?」
愛子は、恐る恐る尋ねた。
「確定しません」
ありさはそう答えてから、言葉を続けた。
「しかし、格段に分岐する世界線は少なくなります。ですから、あなたを、斎藤愛子を何としてでも救う必要があるのです」
つづく
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