ただ歩く
東京の街を、ただ歩くことが好きだ。
行き先も、目的もない。
飽きるまで歩いていることに、悦びを感じる。
以前は、どこかに行く移動手段としての歩行であった。
または、健康やストレス緩和など、何か目的を持った、エクササイズとしてのウォーキングであった。
なぜなら、残された時間を無駄に使ってはならないという思い込みがあったから。
今は、歩行でも、ウォーキングでもない、ただ歩くことがしたい。
一緒に、ただ歩いてくれる人はいるだろうか。
もし、あなたにそんな人がいるのなら、この上ない幸いだろう。
もし、いないのなら、あなたは何かのために歩いていないだろうか。
どこかに行くために、歩いてはいないだろうか。
ひたすら、焦っているのではないだろうか。
相手と一緒にただ歩いていたいと、アタマでは思っていても。
ホンネでは、何かのために、一緒に歩いていることがある。
相手と歩くこと自体が幸せなのではなく、自分の思考が作り上げた、まだ見ぬ幸せのために、相手と歩いていることがある。
実は、直面するのが怖いことから逃げるためだけに、一緒に歩いていることがある。
実は、共に歩くべきだという思い込みから、一緒に歩いていることがある。
もし、何かを得るために歩いているのだとすれば、相手がゆっくりと歩くと、イライラしてしまうだろう。
相手が早く歩けば、文句が出るだろう。
相手が思わぬコースを歩けば、どこに向かっているのか不安になる。
相手が目的地のない歩みをしていれば、「わたしたちは何のために歩いているの?」と、相手を責めたくなってしまう。
人は、相手とただ一緒に歩きたいと思っていたとしても、どうしても何かのために、誰かと歩いてしまう。
自分に安心をもたらしてくれそうな結果を得るために、相手と関わろうとしてしまう。
結果が出ないと、不満が出る。
相手の目的がわからないと、不安になる。
一緒に、ただ歩くことは、難しい。
幸せのために…健康のために…と、何かのために生きている人には、できないことかもしれない。
何かのために生きている人にとって、ただ歩くことは、ただ無駄なことでしかないのだから。
一緒にただ歩く時間。
それ自体を愉しめる相手がいることは、ありそうもない奇跡である。
奇跡は、何かのために生きている人には、訪れない。
期待で、手のひらがいっぱいだから。
手のひらに、期待のない空間を作ることはできるだろうか。
空間がそこにあれば、野鳥が池に舞い降りるように、努力なく奇跡がやってくるだろう。
2023/12/25
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