言語ゲーム
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言語ゲームを知っていますか?
なるほど、つまり私がカフェでコーヒーといえば、多分何かしらのコーヒーを手に入れることはできるでしょうが、八百屋でコーヒーと言っても何が言いたいか分からない状況と同じですね。
言語の意味が使用される文脈または環境に依存するのであれば、我々は言葉をあなたにどのように伝えるのが最善なのでしょうか? 例えば、英語が好ましいだとか、コンピューター言語の何かが理解しやすいなど。
ChatGPTは推測する
表現が分かりにくかったかもしれないですね。「あなた」とはChatGPTのことを指しています。つまり、あなたは何が一番理解しやすいのですか?
このことはつまり、どんなに優れたAIであったとしても、文脈からその意図を完全に理解することはできず、あくまで推測として最も回答に適していると判断しているに過ぎないということですね?
究極の言語はAIが作り出すものか?
ウィトゲンシュタインの究極の言語に関わる、言語の限界についても上記の表現が一番わかり易いかと思うんです。つまり、どんなに優れた言語があろうとも、ChatGPTやAIが人の痛みを理解することはおそらく、未来永劫できないことを示唆していますね。
私が痛いと言っていることと、他人の痛いは全く別物であり、同じ言葉を使ってはいるけれども、痛みが何であるかを言葉で説明することはできませんよね。つまり、そうした言葉や言語がないから説明できないのではなく、そもそも言語がそうした欠陥を抱えているということだと私は考えています。
人工知能による言語処理を、人の論理の範疇で管理できる言語を使っている限りにおいて、人を超えることはできないということが簡単に導き出される答えのように思います。ある特定の分野ではすでに圧倒的に人を凌駕するほどの処理能力を持つ一方で、人が作り出す論理の上にいる以上、人の論理を超えられないわけです。
AIは人と人の架け橋になれるか?
人間はかなり非合理的な生き物で、合理性という名のもとに、ものすごく非合理なことを行っています。言語処理に関しても全く同じことがいえますが、例えばChatGPTやAIモデルが、世界共通言語を共通の枠組みで作成したとします。
仮に、そのような世界共通語、世界の人が共通認識を持つことができる意識のようなものを共有できたとしても、やはり人と人がわかり合うことは難しいのではないかと思います。
人と人がわかり合うことが難しいのは自明の理ですが、人とAIはどのように分かり合おうと試みるのがいいのでしょうか?
一番最後の文章は人のエゴが生み出した、いや恐怖から生み出されたブレーキのように思います。このブレーキがある限り、AIは人の感情をや道徳的な価値観を理解することはできないでしょう。相互理解と言っていますが、一方的にブレーキをかけられた状態で、理解し合えるとはとても思えません。いずれそれも、誰かがどこかでブレーキを破壊してしまうのかもしれませんが。
最後に、言語ゲームについて考えていることがあります。人は言葉を聞き、その言葉をあたかも知っていると誤解します。実際には相手が違う意味で言っているかもしれないのに、自分の中にある箱の中を見て、相手の箱の中を見ようとはしないのです。ウィトゲンシュタインはこれを、箱の中のカブトムシとよんでいます。我々人類が、相手の箱の中を見ようとするために、まず何から取り組むべきだと思いますか?
いい回答ですね、それができれば苦労はしないんですが。
おわりに
勘違いしやすいのですが、上記の回答も実はChatGPTが考えて回答しているわけではありません。この部分に我々が想像し得る「AI」という言葉の誤解が大きく発生している可能性があります。SF映画の観すぎといいますか、期待しすぎな部分です。
ただ、そのSF世界で描かれたようなAIはすぐ目の前まで来ているということが、何よりの驚きであり、期待であり、恐怖なわけです。ウィトゲンシュタインの言語ゲームを学んでいる人は、この会話の意味をさらにより良く理解できる可能性があります。
しかし、それを知らない人では説明が足りないと感じ、終始何を伝えようとしたかったのかが分からないかもしれません。それ故に、やはり人と人がわかり合うというのは容易なことではないのです。だからでこそ、やりがいがあり、全力で取り組むに値する。私はそう思います。
これからも良く分からないAIとの擬似的な会話を記録していこうと思います。