水本ゆかりちゃんの豆腐

 プロデューサーは企画書を差し出した。ゆかりの新しい仕事が回ってきたのだった。

「そこに書いてあるように全国高校選抜卓球大会のイメージガールとして、ゆかりには宣伝・広告の仕事に加えて大会のテーマソングを歌ってもらう。おもしろそうな仕事だろう」

 ゆかりの返事には元気が欠けていた。

「あの、プロデューサーさん。私は卓球の経験がありません。イメージガールが務まるとは思えないのですが……いえ、せっかく回ってきたお仕事ですし、絶対ダメというわけではないのですが」

 プロデューサーは頷き、一息おいて言った。

「やめたくはないがやりきる自信がない、というわけだな」

「そうですね、あまり自信はありません……卓球をやったことのない私のような素人が出しゃばってきて、真剣に勝負している方々には不愉快に思われるのでは?」

 プロデューサーはスマホを手に取ってゆかりに言った。

「それならば真剣に勝負している方々を見に行こうじゃないか」

「えっ、どうやって」

 唖然とするゆかりをよそに、プロデューサーは電話をかけた。


 五日後、プロデューサーとゆかりは都内の某高校を訪ねた。卓球の強豪校として知られる高校だ。プロデューサーは「連絡したらオーケーが出たから、ここで卓球を見てみよう」と言ってゆかりを連れてきたのだった。辺りにいる高校生から様々な色の視線を向けられる中、ふたりは校内にそびえる大きな体育館に向かった。

 体育館に入ると、ボールをラケットで打つ音がゆかりたちを出迎えた。館内には卓球台が並べられ、多くの卓球部員がラリーを繰り広げていた。

「お待ちしておりました。我が校の卓球部にようこそ」

 卓球部の顧問の先生が近寄ってきて、ゆかりとプロデューサーに声をかけた。ゆかりはぺこりと頭を下げる。プロデューサーと先生は握手した。

「お忙しいところお時間をいただきありがとうございます。ゆかりの卓球への理解を深めようと思いまして、少しお邪魔します」

「かしこまらず見ていってください。イメージガールが来ているとなれば、部員たちもテンションが上がるでしょう」

 先生は穏やかに微笑みつつ、ゆかりとプロデューサーをガイドして体育館の中を歩いた。ゆかりは高速でボールが行き交う風景にびびりながら練習の様子を眺める。驚くほどの速度で放たれたボールを打ち、また打ち返す鋭いラリーを見るのは新鮮な体験だった。

 やがてゆかりとプロデューサーは体育館の隅っこにある卓球台に案内された。辺りに部員の姿はない。先生が言った。

「ここで少し、実際に卓球をプレーしてみましょう」

 いつの間にか先生はラケットとボールを手に持っていた。ゆかりはそのラケットを先生から受け取り、握ってブンブン振ってみた。すかさずプロデューサーが口を挟んだ。

「ゆかり、ラケットの持ち方が違うぞ」

「えっ、これではいけないのですか」

「握手するみたいに持つんだよ。親指と人差し指でラケットを挟むように持つだろ。そのあと残りの指で握るんだ」

「こんな感じでしょうか」

 と言ってゆかりはラケットを握り直した。プロデューサーは頷く。

「おう、そういう持ち方でオーケーだ」

 ゆかりとプロデューサーのやりとりを見て、先生が探るように言った。

「おや、プロデューサーさんは卓球の経験があるので?」

「昔、私も卓球をやってたんですよ。もうだいぶ古い話ですが」

「ならばプロデューサーさんが水本さんに卓球を指導すればよかったのでは……」

「いや、近くに卓球ができる場所がないんですよ。それに私は経験があるとはいえ下手だったので、一流の卓球をゆかりに見せたかったんです。さあ、ゆかり。やってみろ」

 プロデューサーは事務的な口調で先生に言って、プレーを始めるよう促した。先生とゆかりは卓球台を挟んで向かい合う。先生はラケットをしっかりと構えつつ、穏やかな調子で言った。

「まず卓球をやるときは力を抜いてリラックスしてください。足は肩幅より少し広めに取って。私が水本さんにサーブを打ちますから、水本さんはフォアで返してみてください」

「は、はい」

 ゆかりは先生が言ったとおりに力を抜き、姿勢を作った。そこへ先生がサーブを打ってくる。ゆっくりとした打球だ。ゆかりはそれを打ち返そうとしてラケットを振ったが、ラケットがボールに触れることはなかった。空振りしてしまい、ゆかりは申し訳ない気持ちになった。

「す、すいません。当てることもできませんでした」

 先生は優しげな口調を崩さずゆかりに言った。

「誰でも最初はこんなものです。もう一度やってみましょう」

 再び先生がボールを放ってきた。ゆかりはなんとかラケットで打ち返す。今度は当てられたが、ゆかりの打球はあさっての方向に飛び、卓球台の脇に落ちた。

「ああ、申し訳ありません。まともな卓球になりませんね……」

 さらに困った顔を深めるゆかりに対し、先生は決して厳しい態度は取らなかった。微笑みながらゆかりに言う。

「できなければ練習すればいいんです。アイドルだって練習して力を磨いていくでしょう。卓球も同じですよ」

「そ、そうですね。がんばります」

 そのあともしばらくゆかりと先生は卓球の練習をした。プロデューサーは黙ってその様子を見ていた。ゆかりはフォアとバックの練習をやったが、先生がボールをラケットで打ったときの音に比べてゆかりの音はどこか美しい響きがしない。ラケットの正しい位置にボールが当たっていないからだ。

 結局ゆかりのプレーは粗いまま練習が終わったが、プロデューサーがちらりとゆかりの表情を見てみると、満足したような感じがあった。連れてきて良かったとプロデューサーは思った。

 練習のあと、ゆかりは先生に言った。

「今日はありがとうございました。私のプレーは下手くそでしたが、最後までご指導いただき感謝しています」

「初めから上手い選手なんてなかなかいませんよ。ウチの部員だって、全員が強力な選手とは言えない。他校と試合しても負けるときは負けます」

 体育館を見回ったあとで聞くと意外な話だった。どの部員もレベルが高そうに見えたのに、敗れることもあるのか。ゆかりは疑問を口にした。

「そうでしょうか? 見た限りではみなさんとても熟練しているようですが。負けることはなさそうに見えます。それに、負けたくないから熱心に練習するんでしょう」

 先生はあくまで穏やかなトーンで、ゆっくり理解を深めようとするように話をした。

「競技においては、どちらかが勝てばもう片方は負けます。トーナメント形式の戦いでは優勝者以外全員敗者でしょう。すべての選手が負ける可能性を背負っています。どこの高校の選手もね」

 勝者が決まるということは同時に敗者も決まることで、誰だってそのどちらかになる。その渦の中でここにいる部員たちは卓球をしている。ならばなんとかして勝者の椅子に座りたいと思うのが当然では、と考えるゆかりを先生はやんわりと否定した。

「それに、部員のみんなが勝利を求めているわけではありません。高校を卒業してから卓球でご飯を食べていきたい、と考える部員は少ないですし、試合に勝ちたいというよりも友達と一緒に卓球をしているのが楽しいと思っている部員も大勢います。単純に体力を付けたいから卓球を始めたとか、親兄弟の影響でとりあえず卓球部に入った部員だって多いのです」

 勝利を求めないでも卓球はできる。とするとではなにを求めてやるのか? ゆかりはもう少し考えて言った。

「つまり、勝つことを求めない方もいるのですか。勝たなくても得られるものがある、と……?」

 この言葉には先生も納得がいったようだ。先生は練習風景を目でなぞる。

「私は部員たちが卓球から多くのことを学んでほしいと願っています。身体能力の向上も目指すところのひとつではありますが、卓球の戦略を学ぶことで問題を解決する思考力を養ったり、憂鬱なときに卓球を元気の素として考えてほしいと思います。仲間や対戦相手に気を配ることを覚えるのも大切なことでしょう。そうしたことを学ぶのがこの場なんです」

 行われているのは学ぶことだったのだ。勝敗以上に、勝っても負けてもなにかを学ぶことを忘れないのがより重要なのだろう。それはアイドル活動にも言えることかもしれない。

「なるほど、勝ち負けではないなにかを身につけるんですね。いいお話が聞けました。イメージガールのお仕事、がんばります」

「はい。卓球部を代表して水本さんの活躍を願っています」

 そこでプロデューサーがゆかりの前に出て、頭を下げた。

「本日はご指導ありがとうございました。ゆかりも充実した時間を過ごせたと思います。イメージガールの仕事を完遂させるため、我々もよりいっそう努力をしていきます」

 ゆかりも先生も一礼する。ほんの短いあいだの体験だったがたくさんのことをゆかりは吸収した。勝負に勝てなくても身につくものがあるのだ。今日覚えたことを忘れずに仕事をやろうとゆかりは決心した。


 イメージガールとしての仕事は様々だった。ゆかりの写真を使ったポスターを作ったり、雑誌で対談したり、テレビやラジオで全国高校選抜卓球大会についてコメントした。ゆかりはがんばって練習している選手たちを応援し、出場する全員が力を合わせて最高の大会にしようと呼びかけ、この大会からたくさんの人が多くのことを学ぶだろうと話をした。それに対する世間からの反応は好意的だった。ゆかりをイメージガールにして正解、という評価が広まっていった。

 大会のテーマソングを歌うという仕事も順調に進んだ。ゆかりはアイドル活動にも慣れてきて、そつなくこなすことができた。仕事の進捗状況が良好なのもゆかりの評価をまたひとつ上げた。

 そんなある日、プロデューサーが打ち合わせをしようとゆかりを呼んだ。またしてもプロデューサーは企画書をゆかりに手渡した。バラエティ番組に出演する仕事で、番組中に男性タレントと卓球で勝負するという内容だった。

「イメージガールらしく、ゆかりが実際に卓球をプレーするところをテレビで放送したいんだそうだ。で、この男性タレント――ルックスがチャーリー・ブラウンに似ているからチャーリーと呼ぼう――と試合をする。チャーリーは学生時代に卓球サークルに入っていたそうだ。それに加えて腕前もすごいらしい。つまりは強敵ということだな」

「それでは私の勝ち筋は細いですね……たぶん負けてしまいます」

 プロデューサーは納得した表情で深く頷き、ゆかりのほうに頭を突き出して言った。

「でだ、ゆかりはこの試合をどう見たい?」

「うーん、楽しく卓球がしたいです。勝てなくても、あとで振り返ったときにいい試合ができた、と思えるようになりたいですね。なにもできずにボロボロに負けたくはないです」

 ゆかりはたまに負けず嫌いな一面を見せるとプロデューサーは感じていた。いまもその側面が出ているようだ。負けるとわかっていても、ゆかりの中で善戦できたと思えればいいのだろう。

「それならばいくらか実力をつけるべきだな。卓球の練習をしよう」

「練習できる場所があるんですか? 某高校に行ったのは、適当な場所がなかったからでしょう。またあの高校に行くのですか? 繰り返しお邪魔するのは難しいのでは」

「某高校には行けない。だがしかし、実はイメージガールの仕事をきっかけに大会の運営側から卓球台とネット、ボール、ラケットがプレゼントされたんだ。昨日届いたんだがね。休憩室を少し整理してスペースを作れば、そこに卓球台を置ける。そこで練習すればいい」

「そんな贈り物があったとは……」

「練習相手は俺がやる。某高校に行ったとき、経験があるって言っただろ。チャーリーほどの技術はないが、お前の助けにはなると思う」

 ゆかりは不安も期待も感じたが、チャーリーと戦うことを決めた。そのために努力すべきことはたくさんあるし、努力しても勝ち目は少ないだろうが、やってみたいという気持ちのほうが強かった。

「では、プロデューサーさん、私の力になってくださいますか?」

「俺もゆかりを見ているうちにラケットを振りたくなってきたよ。いい試合ができるようにゆかりを鍛えてやる」

 こうしてゆかりとプロデューサーは卓球の練習に励んだ。プロデューサーのプレーは意外にもなかなか高いレベルで、ゆかりはまともにラリーするのにも苦戦した。ゆかりに対してプロデューサーはアドバイスを与え続け、構え方、ラケットの振り方などなどの技術を叩きこんだ。ゆかりも新しいことを身につけるのは楽しかった。

 そんな日々が続くと、やがてゆかりの同僚や先輩アイドルも休憩室にやって来て卓球で遊ぶようになった。人数が増えるとミニトーナメントを組んでたくさん試合をした。チャーリーとの戦いが待ち受ける中、ゆかりは練習を積み重ねていった。

 そしてバラエティ番組の収録日がやって来た。芸能人が集まってトークをしたりB級グルメを食べたりクイズに答えたりするコーナーが連続し、ゆかりもその中に混じって笑ったり笑われたりした。番組の後半、その場のテーマが卓球に移り、チャーリーとゆかりの決戦が始まった。卓球台がスタジオに運び込まれ、ゆかりはラケットを握った。サーブはチャーリーからだった。

「ゆかりちゃん、強そうだね。僕、負けちゃうかも」

 とチャーリーが構えをとった。ゆかりは礼をする。

「対戦よろしくお願いします。私もベストを尽くしますよ」

「じゃあいくよ。それっ」

 チャーリーの振ったラケットがボールを叩く。ゆかりは打つタイミングを見計らって返球した。練習したおかげでスムーズにボールを捉えることができた。打ち返したボールがチャーリーのコートに落ちる。チャーリーはその球をまた打ったが、ネットに引っかかってしまった。先取点を取ったのはゆかりだった。スタジオにいた面々が歓声をあげる。チャーリーは苦笑いした。

「ゆかりちゃんうまいね。さすがイメージガールをやってるだけある」

「いまのはまぐれですよ。きっと」

 試合はさらに続いた。ゆかりは安定してラリーが続けられるよう、なるべく相手コートの隅は狙わないように返球した。チャーリーもまた高度なプレーを展開した。スマッシュのような強打は使わなかったが、ボールに回転をかけたり、優れた動体視力でゆかりのボールを逃がさずに打ち返してきた。

 卓球はおもしろい、とゆかりは戦いながら思った。この試合にはおそらく負けるとわかっていてもおもしろかった。きっとおもしろいと思っているうちは負けてばかりでもいろんなことを吸収し、学び、共有し続けられるのだろう。もしやっていておもしろくないと感じたときこそが終わりなのかとゆかりは考えながら試合を戦い抜いた。

 結果としてゆかりは僅差で試合に負けた。それで満足だった。チャーリーは少し息を乱しながら言った。ゆかりも疲れていた。

「思っていたよりずっとゆかりちゃんは強かったよ。卓球の才能、あるんじゃない?」

「才能があるかどうかは怪しいですよ。対戦ありがとうございました。私の負けですが、楽しかったです!」

 ゆかりが笑顔になってそう言うと、スタジオにいる全員が盛大に拍手をした。いい試合ができたし、おもしろいバラエティ番組になったんじゃないかとゆかりは思い、残りの収録を滞りなく終わらせた。


 ゆかりはイメージガールの仕事を無事に終えることができた。たくさんのことを学べた仕事だった。仕事を通して新しいものに触れられるアイドルの世界からはまだまだ多くのことを学べるはずだ。いろんなところに行ってみたいし、いろんなことをやってみたい。そんなことを考えているとプロデューサーに声をかけられた。

「ゆかり、卓球をしよう」

 まだ休憩室には卓球台が置いてあり、暇なときはみんなが集まってボールを打ち合うのだった。ゆかりは返事をした。

「いいですよ。私ももっと上達したいですから」

 プロデューサーはムフフと笑って腕を組んだ。

「そうか。なら俺に勝てるくらい上手くなったら、パフェでも奢ってやるよ」

「パフェですか……いまはラーメンが食べたい気分ですね」

「ならばどんなラーメンがいい? しょうゆか、塩か、みそか……」

 ゆかりとプロデューサーは休憩室へ向かって歩き出した。

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