見出し画像

みちのく潮風トレイル冒険録2:鹿狼山を越えて宮城県へ(あぐりや→坂元駅)

 みちのく潮風トレイルは、東北地方の太平洋岸を歩く道だ。ということはつまり、東日本大震災の被災地をめぐる道でもある。
 私自身、実家がトレイルの沿線にあることからわかる通り、一応"被災地"と呼ばれるエリアの出身である。しかし、津波は私の実家までは到達しなかったし、幸運なことに原子力災害による避難区域にも実家は含まれなかった。震災当時私は既に実家を離れていたので、地震の揺れ自体もその後の混乱も直接には一切経験していない。したがって私自身は被災者というカテゴリに括られる人間では無いし、実家の家族も東日本大震災で大きな被害を被ったというほどではない。つまり私は、東日本大震災というものに対して、当事者ではないが完全なる部外者でもないという中途半端な立ち位置にある。震災直後はこの中途半端な立ち位置のせいで苦しい思いをしたことも多くあったのだが、実際に被災した方の苦しみには比べるべくもないので、それについては今は触れない。
 みちのく潮風トレイルをめぐる旅をこの先進めて行くと、東日本大震災の被災地を次々と訪れて行くことになる。震災から10年が経った被災地を自分の足で歩き、感じたことをここに書き残して行くことで、自分の中途半端な立ち位置のせいで抱えていた震災というものへのモヤモヤを解消する旅にできればいいなと思っている。歩く速度でしか見えてこないものが、きっとある。

Day3:新地駅方面交点→坂元交差点

 2021年5月2日(日)
 ゴールデンウィークに新地町区間を歩こうと計画を立てる。しかしこの日は天気が悪かったため鹿狼山登山を含む区間は諦め、それより北の区間を歩くことにする。新地駅方面交点をこの日のスタートに、北に向かって歩く。歩き始めてすぐ、龍昌寺というお寺があり、トレイルのコースを示す看板が立っている。ハイカーにトイレを開放しているようだ。

画像1
画像2

 福田小学校の前を曲がり、国道6号線を横断した先でJR 常磐線の高架をくぐると海が見えてくるが、このあたりが福島県新地町と宮城県山元町の境となる。この近辺の常磐線(山下駅~坂元駅~新地駅)は震災で被災し山側に移設されている。旧線路跡は真新しい道路として整備されているが、トレイルは海沿いの古い県道をたどるので少し混乱する。
 県道を北上すると、震災遺構中浜小学校が見えてくる。入館料を払い、中を見学する。ここは震災時、津波が到達するまでに高台に避難している時間は無いという判断で屋上に垂直避難し、結果として全生徒の命を救ったという遺構で、津波で破壊された教室だけでなく避難した生徒たちが一夜を明かした屋上の屋根裏部屋もガイドつきで見学することができる。大勢の命を救った遺構ということで悲惨さはあまりなく、災害時の迅速な行動について考えさせる展示となっている。
 山元町の震災といえば、常磐山元自動車学校の悲劇を思い起こす。私の見知った人も何人かこの事件で命を落としているのであまり深くは触れたくないが、迅速な判断が多くの人の命を救った中浜小学校とは対照的な事例と言えるだろう。その自動車学校は、中浜小学校から1kmほど北に行ったところにあった。
 旧坂元駅前を過ぎ、移転した新しい坂元駅でこの日の行程を終える。坂元駅には農産物の直売所が隣接しており、かなり混雑していた。中浜小学校と直売所をセットで訪れる観光客も多いようだ。

画像3

Day4:新地駅方面交点→鹿狼山→あぐりや

 2021年5月3日(月)
 天候が幾分回復したので、昨日歩き損ねた鹿狼山区間を北側から歩くこととする。鹿狼山は子供の頃から何度も登ったことがあり、多くの登山コースが整備され地元の登山客で賑わう山だ。MCTは北側からは"蔵王眺望コース"を経由して鹿狼山に登るが、このコースは初めて登った。たくさんの登山者とすれ違いながら登っていく。山頂の手前で丸森町側からの登山道と合流し、杭に張られたロープにしがみつきながら急坂を登ると山頂の神社にたどり着く。標高429m、登山初心者でもそれほど苦労する山ではない。曇りがちではあるものの、MCTのスタート地点の松川浦が良く見える。

画像4
画像5

 下りは"樹海コース"を歩き、鹿狼の麓に降りる。
 鹿狼山の南側の鞍部には、旗巻峠という峠がある。現在の地名では福島県相馬市と宮城県丸森町の境界の峠だが、江戸時代は相馬藩と伊達藩の境であった。戊辰戦争の際、この峠は旗巻峠の戦いという戦いの舞台となった。
 戊辰戦争。福島県の人は戊辰戦争について語ることが好きな人が多い。東北における戊辰戦争とは、新政府軍と奥羽越列藩同盟の戦いである。奥羽越列藩同盟とは、明治政府によって朝敵とされた会津藩と庄内藩への助命嘆願を目的に、伊達藩を盟主として結成された同盟である。そういう意味では、必ずしも親幕派とは言い難い。一方的に悪者扱いされた会津藩に対し、そんなのあんまりじゃないかと同じ東北人の誼で声を上げたというのが実情だ。そういうわけだから同盟の結束力は必ずしも高くなく、早々と同盟を見限って新政府軍についた秋田藩や弘前藩、裏切りが許せず秋田藩を攻撃した南部藩のように、それぞれの藩が各々の思惑で動いた。
 旗巻峠の戦いは、相馬藩を降伏させた新政府軍が、伊達藩領に攻め入った戦いである。伊達藩はこの戦いに敗れて領内に新政府軍の侵入を許すととっとと降伏し、相馬・伊達における戊辰戦争は終結した。城を枕に最期まで戦い抜いた長岡・二本松・会津などの諸藩に比べ、同盟を主導しておきながら国境を破られただけでさっさと降伏した伊達藩はちょっと情けないなと感じるのは、私が長年伊達氏と敵対してきた相馬藩の出身だからだろうか。
 話が逸れた。鹿狼山の登山口を後にし、新地町の市街地まで東進してあぐりやでゴールとし、またしても親に車で迎えに来てもらい、行程を終えた。

 2日間の合計で25.56km、中浜小学校を見学した時間も含め7時間ほどで歩いた。

02.新地→坂元

 なお、この地図ではセクションの区切りとしたポイントを緑のひし形で、それ以外の経由地を青の三角で表している。

 南側のセクションは↓

 北側のセクションは↓



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?