ふくしま浜街道トレイル冒険録4:富岡町、廃炉資料館とアーカイブミュージアム(富岡→夜ノ森)
ここ2年、3月11日にみちのく潮風トレイルを歩くということを続けた。今年の3月11日はふくしま浜街道トレイル、それも双葉郡で過ごすことにして、まずは前日の3月10日、富岡駅に降り立った。
富岡から北は、いよいよ原発事故の影響が大きかった地域に入る。本当は南側から順番に歩いてしまいたいところだが、しばらくの間、歩く順番を入れ替えたり、北から南へ歩いたり小刻みにセクションを区切って歩くことにする。というのも、この先の双葉郡に点在する震災や原発事故関連の資料館を歩きながら訪問したいのだが、各施設の開館日の都合に合わせて歩くためだ。ロングトレイルを歩くという点ではちょっとちぐはぐになってしまうかもしれないが、「ふくしまの今を歩く」というふくしま浜街道トレイルのキャッチコピーにできるだけ寄り添いながら歩くため、立ち寄りたい場所には全て寄っていこうと思う。
Day5:富岡駅→夜ノ森駅
2024年3月10日(日)
今日の行程は富岡駅からスタートするが、その前に立ち寄りたい場所が富岡にはある。「東京電力廃炉資料館」だ。この資料館は東京電力が運営している原発事故と廃炉作業についての資料館で、あらかじめ予約しておけば職員さんの解説付きで見て回ることができるので、朝イチ10時からの回を予約しておいた。
資料館は前半が事故の経過について、後半が現在進められている廃炉作業についてという二部構成となっている。世間を震撼させた福島第一原子力発電所事故だが、どういうメカニズムで事故が起きたのか詳らかに知っている人はあまり多くないのではないだろうか。私自身も福島県民でありながらそこまでの詳細は把握していなかった。
福島第一原子力発電所に6基、震災当時運転中だったのは3基で、残り3基は定期点検のため停止中だった。運転中だった3基すべてで電源が喪われて原子炉を冷却することができなくなり、このうち1号機は3月12日の夕方に、3号機は3月14日に水素爆発を起こした。私は3月12日の最初の爆発のニュースを札幌のネットカフェのテレビで見た。あの時はもう二度と相馬市の実家には帰れないかもしれないと絶望したものだ。また、定期点検のため停止中だった4号機は3号機から流れ込んだ水蒸気によって水素爆発を起こした。
水素爆発というのは冷却できなくなって過熱した原子炉が水と反応することで水素が発生し、その水素が酸素と反応することで起こる爆発のことで、原子炉の核燃料そのものが爆発したわけではない。
また、運転中だった原子炉のうち水素爆発しなかった2号機は、1号機の水素爆発により原子炉建屋が破損したことで水蒸気が建屋内にこもることがなかったため、水素爆発には至らなかったものの、原子炉からは最も多くの放射性物質を放出したとされている。
この資料館では、そうした原子力事故の経過を知ることができる。1時間のツアー形式ではとても全部を理解しきれないほどの情報量の資料館だったので、いずれ再訪したいと思う。
原発事故や放射性物質について漠然とした恐怖を抱いている方はとても多いだろうし、あれだけの事故が起きたのだから恐怖を感じることは当然だと思う。しかし、なぜ事故が起きたのか、どうして事故を防ぐことができなかったのか、その経緯を詳しい知識を持つことで、漠然とした恐怖を具体的な恐怖にとアップデートすることができる。知識に裏打ちされた具体的な恐怖は感情的にならない理性的な判断の下支えとなるものだと思う。ぜひ、この資料館には多くの人に訪れていただいて、自分の目と耳で展示を見て、自分の頭で考えてみてほしいと思う。
さて、資料館から富岡駅に行ったん戻ってトレイル本線を歩き始める。川を渡っていると、常磐線の特急ひたち3号仙台行が鉄橋を渡るところが見えた。この列車は品川駅を朝7時43分に出発する特急で、富岡駅には11時ごろに到着し、終点の仙台駅まで4時間以上かけて走り抜けるロングラン列車だ。東日本大震災の影響で長期間運休していた常磐線だが、無事に全線復旧し、今では1日3往復だけとはいえ特急ひたちが東京と浜通りを結ぶ使命を持って走り抜けている。10両編成の真っ白な特急の車両が、3月の空に映えていた。
テニスコートや体育館の集まる富岡スポーツセンターの中を通る。双葉郡には、原子力発電所の恩恵を受けて整備された立派なスポーツ施設が点在していて、私も中高生の頃この富岡スポーツセンターを部活の大会で利用したことがある。中高生の頃もその設備の過剰なまでの立派さに原発がもたらすものを感じた記憶がある。
国道6号線を越え、「とみおかアーカイブ・ミュージアム」という博物館に立ち寄る。ここは富岡町が整備した博物館で、震災伝承施設としての機能だけでなく、どこの町にもあるような歴史民俗資料館の機能をあわせもっていることが特徴だ。展示の半分は震災と原発事故について取り扱っているが、残りの半分は震災以前の富岡町の歴史についての展示で占められている。この二つのレイヤーを重ね合わせることで、原発事故によって喪われた歴史の尊さを感じることができる構成になっている。
福島県への原子力発電所の建設は昭和30年代から検討が始まった。福島県側の誘致活動もあったし、首都圏から遠すぎず、また近すぎない場所に原子力発電所を建設したいという東京電力側の思惑もあった。
双葉郡の地形の特徴として、海に面していながら港に適した土地が少ないという点がある。そのため海沿いではあるのに気仙沼や石巻のような水産業を中心とした街が存在しない。またいわき市の小名浜のように港を背景にした工業も発展し得ない。農業以外に産業を持たなかった双葉郡が、豊かになるための手段が原子力発電所の誘致だった。
こうして建設された原子力発電所は、「福島第一原子力発電所」「福島第二原子力発電所」と命名された。福島県出身者としては、このネーミングには少々違和感を感じる。福島県の人が接尾辞なしで「福島」と言えば、ふつうは福島県の県庁所在地である福島市を指す。浜通りや双葉郡を「福島」と呼ぶことはふつうない。たとえば松本市の人が松本のことを「長野」と呼ばないのと同じだ。
日本の他の原子力発電所の名前をみても、柏崎刈羽とか、敦賀とか、所在する市町村の名前を冠しているところがほとんどだ。なぜ、双葉や大熊、富岡や楢葉といった所在市町村の名をとらずに都道府県名である「福島」を冠したのか。きっと、ふたつの原子力発電所によって福島県が日本の発展に貢献したい、そうすることで福島県という土地に誇りを持ちたいという願いがあったのではないだろうか。しかしその願いは、最悪の事故によって「福島」という地名を世界中に轟かせるという結果によって裏切られてしまった。もしふたつの原子力発電所が違う名前だったら、福島県の人々が負った心の傷はまた違ったものになったのではないかと思う。
富岡という町は、双葉郡の中心的な立場の町である。震災以前は福島第一・福島第二原子力発電所のいわば企業城下町的なポジションで賑わっていた。往時の賑わいは去ってしまったかもしれないが、それでも双葉郡の中心地であることに変わりはない。今では、これから長く続く廃炉作業の拠点として、新しい役割を担おうとしている。
富岡駅の北隣の駅、夜ノ森駅の桜並木は桜の名所として知られており、避難指示の解除以降は桜の季節には人で賑わうようになっている。今日は3月、桜のつぼみは少しずつ膨らみかけ、多くの人が訪れる季節を心待ちにしている。
一方で、桜並木の周りには、震災当時のまま放置されている建物や自動販売機がそのままに残されている。
ところで、夜ノ森の北には富岡町と大熊町の境界線があるが、大熊町から北の町は江戸時代相馬藩に属しており、戦国時代も夜ノ森が相馬氏の領土と岩城氏の領土の境界だった。また、明治時代に双葉郡が成立する以前の標葉郡と楢葉郡の境も夜ノ森である。「夜ノ森」という地名も、相馬氏と岩城氏その領土を「余の森だ」「余の森だ」と言って争ったことが由来という説がる。その由来の真偽はともかくとして、ありていに言えば、夜ノ森という場所は「相馬」の文化圏と「いわき」の文化圏の境目ということができる。
夜ノ森駅の西口には、「YONOMORI DENIM」というお店がある。リメイクデニムの専門店で、ここでデニムを再利用して作ったお洒落なサボテンの置物をお土産に購入した。
少し短いが、次回以降の行程をキリよくするために夜ノ森駅をいったんセクションの区切りとして、今日の行程を終える。
この日歩いたのは5.7km。アーカイブミュージアムへの寄り道を含めて4時間ほどで歩いた。夜ノ森駅から富岡駅まで常磐線に乗り、富岡駅前のホテルに宿泊する。
明日はいよいよ3月11日、浪江町から双葉町を歩く。
北側のセクションは↓
南側のセクションは↓