通信R050214「こたえあわせ」
岩波書店のロゴは「種を蒔く人」。
あの美しいロゴが好きで、わたしはよく広辞苑の背表紙を見てはうっとりとしている。
わたしはその「種を蒔く」という意味合いが色濃く反映されるような仕事をしている。あくまで比喩的な意味で。どんな言葉が種となり、どんな栄養分を蓄え、どんな花が咲くのかを、自分の中に蓄積された「経験」という少し頼りのないデータにより見計らいながら、育てていく。作物たちとともに過ごす中で、驚いたり、悲しんだり、嬉しく思ったり、様々な自分の感情に気づかされることとなる。
わたしはこの仕事を愛しているし、育てられている作物たちもきっとわたしのことを愛しているだろう。
しかし、種は蒔くばかりではない。
時に蒔かれてしまうこともある。
お前、難しいよ。
、難しい、ですか。どうして。
言わない。
おそろしく手の美しい先輩が、どうやら今年度で旅立ってしまうらしい。
何かを見ているようで、なにも見つめていないその仄暗い目がずっと好きだった。人を簡単に殺そうとしてしまう倫理観の欠如、信じるものの危うさ、周りの人はよくあなたの言動に騒いでいた。それくらい隙がなく美しかったから。あなたの手が、人を生かす手ではなく、人を手折る手であることをわたしは知っている。
わたしも、あなたの中のその他大勢にすぎなかった。距離によって得られていた権利はもう数週間で失われてしまう。
わすれたふり、だよ。全部。
一体何度、光る横顔を見ただろう。先輩の長い睫に月の光が乗る瞬間。孤独な先輩はいつでも人と繋がっていたかったんじゃないかって、そう思ったの、だから、どうせ忘れてしまうんでしょう、でもそれでも、と、投げ込み続けた小石は、あなたの中にしっかりと着水していた、らしい。
きっとあなたはずっと覚えている、美しい絵画のことも、光輝くまちのことも、誰もいない神社のことも、牧草みたいな味のミノのことも、手品師のいる居酒屋のことも。
せつない、っていいよな。
この匂い、はる…春が好きだ。
理路整然なあなたの口から語られる文学的な言葉はわたしをいつまでも生かしていく。
おそろしく綺麗な手でわたしに蒔かれた種は、何も咲かせないこのままで、ずっとくるしく燻らせていたい。
春が好きなせつないあなたとのこたえあわせ。
水漏綾
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