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日帝が行った ”米増産” 土地改良事業  その1

「日帝は朝鮮の米を収奪した」という韓国の主張は本当だろうか。当時の史料をまとめて解説していきたい思います。




李氏朝鮮の社会

今回のテーマである「稲作」に限らず、インフラやはげ山など李氏朝鮮の問題には必ず統治・政治の “まずさ” がある。この視点を見落とすと「日本は悪いことをした」という単純な結論になってしまう可能性が高いので、1910年『朝鮮総督府施政年報』を引用して李朝の政治・社会情勢を今一度おさらいしよう。

朝鮮人の生活状態は極めて単純である。その衣食住のレベルが非常に低いのは、長年の圧政により税金を厳しく取り立てられた結果、人民の生命財産は保障はされず、自暴自棄になり、産業は振るわず、財力は萎縮して、ただ目前の飢えと渇きをしのぐことが、唯一の生存目的となってしまった。

(中略)

従来の慣習により両班は常民の上位に立ち、品位が低いとされていた労働をする身分ではないと自負し、財産があるなしに関わず自堕落な生活をするものが多くいた。今日の両班は常識はなく、ほとんど家が傾き、衣食にすら窮するという状況に陥っている。

常民とは農商工業などの労働に従事するいえども、その生活状態は極めて単純で、衣服は男女とも一年中白衣である。中流以下に至っては衣服すら持っていない者も少なくない。

食生活は上流では米を常食し、中流以下は麦、栗、稗、豆を混合食をメインにしている。特に下流に至っては春窮といい、毎年春になると秋に収穫した食料が尽き、草の根や木の皮を食べて飢え死にを免れている地方もある。

家屋は一般にみすばらしい茅葺き屋根で、高さは6、7尺(約2m)に過きず、構造が雑なので一見畜舎に見える。

しかし日本による保護政策開始後(日韓協約)の地方行政や徴税施設の改善は新裁判所設置と相まって、一般人民の生命財産を漸次補償することになった。しかしながら、道路・鉄道、その他の政府事業により、多数の人民が日常の労働を得ることができたと言えども、恒久的な治安を未だ確立していない僻地では、市民は往々にして盗賊などに苦められていた。朝鮮併合が行われ治安は確実に保障され、民衆一般は安堵することができた。

※引用 1
明治43年『朝鮮総督府施政年報』 pp.82-83.「二十節 地方人民生活状況」より筆者意訳

これは国民総奴隷といっても過言ではない。王族や一部の支配層だけで国の富を独占していたが、その支配層も家計などお構いなしに怠けていると。いつ国が滅んでもおかしくない状態であった。

この問題を解決するためには、まず米の生産量を増やして国民の命を救わなければならない。生産量を増やすためには品種、技術、肥料、灌漑などを整える必要がある。獲れた米を全国に流通させるためには道路や鉄道を整備し、各家庭に届けるためには生産者・卸売・小売など市場を整備しなければならない。余った分を内地や海外が高く買ってくれれば、国(地域)が豊かになり、生産者のモチベーション上がる。その為には港を整備して輸出(移出)しなければならない…この途方もないミッションを日本が請け負ったわけである。


李朝の稲作の問題点

朝鮮の稲作の歴史は古く、紀元前にはすでに中国から伝わったとされる[1]。稲作に適する土地だったことが却って災いしたのか、日本が統治する20世紀に入っても、肥料をまかず自然の力のみで栽培する略奪農法が主流であった[2]。李朝の支配は人々の意欲を削ぎ(引用1)、稲作の技術は幼稚のままで努力の跡も見られなかった[3]。このような状況だったので朝鮮でとれる「米」には以下の様な問題点があった。

・赤米など別品種の混入
・稗などの別の穀物の混入
・砂利など食物以外の混入
・乾燥不良(米が発酵してしまう海老米の発生)

 ※引用2
鮮米の改良 (一〜七) : [其三]1914-08-29/1914-09-06 京城日報


赤米がなくならない特殊な事情

赤米混入に関しては1918年(大正7)8月10日大阪毎日新聞で特殊な事情が指摘されている。

朝鮮米と赤米
朝鮮米と云えば、以前は随分劣等なものとして、蘭貢米(ラングーン)、西貢米(サイゴン)同様に見られたものだが、東拓の施設が出来てから、内地を主として九州地方から早生神力、穀良都という品種を移入改良したので、近年は非常に良くなった。

(中略)

ただ少し遺憾なのは、右の表にもある通り、朝鮮米には所謂赤米を混じて居るという事が欠点である。コノ赤米は朝鮮で倭米という特殊なもので、色が赤くて外皮も厚く味も従って悪い、今では内地からドシドシ新しい良い品種を入れて、赤米の痕跡を絶たんと企てて居るが、いかに優秀なる朝鮮米といえども、この赤米の幾粒かを見ない訳には行かない、これは朝鮮人の多くが藁葺の家に住む事が関係のある様にも思われる。

屋根葺の藁というのは内地品種の稲は、藁が柔かく弱い、屋根でも葺ける位の丈夫な藁はコノ赤米の稲から求めなくてはならぬからである。これが今日東拓辺りで一生懸命内地品種を移入して改良に掛っても、多くの朝鮮人が依然在来種を作りたがる所以である。それを思うと朝鮮米からコノ劣悪な赤米を除くには、どうしても朝鮮人の生活様式から改革する必要がある。

朝鮮米の素質 : 鮮米の改良は屋根の改造より : 毎日講座
※旧仮名使いを変更し、句読点を適宜追加

うまい米は藁が柔らかく弱いので、家を作るのに適していない。家を作るためには硬くて丈夫な藁が採れる赤米が必要だが、それが食用に混ざってしまう。引用1のように、家はみすぼらしくても彼らなりの工夫はしていた。農業分野の改善だけにとどまらないとは、なんとも気が遠くなる話です。


総督府の目標

引用2の問題を解決し、朝鮮内の食糧事情を安定させ、増産によって余った米を日本内地や海外へ輸移出するために総督府は以下の目標を設定した[4]。

(一)土地の開拓と水利設備の改善
(二)優良品種の普及と在来品種の改良
(三)自給肥料の増施と栽培方法の改良
(四)乾燥方法の改善と米穀検査の実施
(五)総督府勧業模範場などの対策

※引用3
『朝鮮の工業と資源』,朝鮮工業協会,1937 p.3

では日本が行った具体的な対策を順番に解説していきます。


水利設備の改善

前述したように朝鮮は気候や土地など稲作に向いていた。唯一の欠点は雨が少ないことである。これを解決するための灌漑設備の整備は最重要課題と言っても過言ではないだろう。とは言っても李朝におて灌漑設備が無かったわけではない。中宗のころにピークを迎え、その後は悪政の為に徐々に荒廃していき、「堤堰(ため池)」約6300、水の流れを調整する「洑」は約2万700を数えるも、ほとんどは使い物にならなかった。日本は1909年(明治42)に従来の施設を修復を開始した(費用は受益者負担とし、工事が必要なものは国庫負担とした)。その結果修復した堤堰洑は1937か所に達した。内地人など民間の参入はあったが、調査・工事・維持にかかる莫大な費用が一つ障壁なっていた。そこで1919年(大正8)4月水利組合補助規程、1920年(大正9)12月土地改良事業補助規則により政府から補助を出し、外国人経営も対象にすることによって整備を促進させた[5]。


洑 河川から用水を水路に引き込むために水位を上げるための堤防


優良品種の普及と在来品種の改良

日本内地と朝鮮は気候が違うので、内地の品種をそのまま持ってきてもうまくは育たない。そこで総督府勧業模範場および道種苗場において朝鮮の気候に合う優良品種を選定することにした。第一期選定は「放置的栽培にも負けない品種」、第二期は「多く収穫できる品種」、第三期は「多く収穫できて、重さがあり味が美味しい品種」を基準とした(正直ここまで考えていたというのは驚きである)。このようにして選ばれた優良品種(穀良都、銀坊主、多摩錦、32号、中生神力など)を各自治体で配付・交換した結果、優良品種の作付け面積が3.8万町歩(1912年)から140万町歩(1934年)と、22年の間に約35倍に増加した[6]。

優良品種は広まってきているとはいえ、灌漑設備が未熟な地域ではまだまだ在来品種に頼らなくてはいけなかった。在来種の一番の問題は品質の悪さから市場価格を大きく落とす原因となっていたことである(努力して良いものを作っても、他の生産者に足を引っ張られる)。これを解決する為に総督府は京畿、黄海、平南、平北、江原に補助金を交付し、種苗場において在来種の改良を行った。比較的優良と認めらる数品種を選定し、系統的に採種・種子更新を行った[7]。


肥料の改良

従来は2年~3年で施肥するのが普通であったが、農民の経済状態や知識を鑑みて当初は堆肥、人糞尿、緑肥など自給肥料を奨励した[8]。農家の経済状態や知識が向上した頃合いを見て、1933年(大正8)からは購入肥料(大豆粕、魚肥、米ぬか、硫酸アンモニア、骨粉など)の奨励をスタートさせた[9]。しかし朝鮮内で使われる肥料はほとんどすべて内地や満州からのものであった。


肥料の生産

1926年久保田豊、森田一雄、野口遵は赴戦江にダムと発電所(4か所)を建設し、その電力を興南の朝鮮窒素肥料工場に送って、窒素肥料を大量生産するという国家的事業を企画した。白頭山を中心とする朝鮮北部の地形は、西はダムや発電所などのスペースが取れるが、発電に必要な落差が無かった。このため赴戦江ダムは一つの川を丸ごとせき止めて本来北に流れるものを、東に変えてこの問題を解決した。工事開始から2年8か月の1930年(昭和5)第一期工事が終了し窒素肥料の生産が開始された。これは当時日本最大の土木工事であり、標高1000メートル、零下40度、工事用電力消失などの数々の困難に立ち向かい、驚異的なスピードで完成させたプロジェクトXであった[10]。


乾燥方法の改善と米穀検査の実施

従来は稲を直接石などに叩きつけて脱穀し、天然の風力でゴミを飛ばしそのまま包装していた。乾燥を全く行っていなかった為、乾燥にばらつきが出たり、腐敗などして品質を落とす原因になっていた。総督府はまず平乾や稲架乾などの乾燥方法を励行した。一方で稲取機、唐箕(とうみ)、ふるいなどを地方費で購入(後に共同購入)して農家に配布したり、農機具の使い方を講習した。

唐箕(とうみ) 脱穀したお米などの穀物を風力を利用して選別するための農具

道具や技術、意識はかなり普及してもなお、ごみの混入は無くならなかった。そこで1923年(大正12)から“むしろ(敷物)”を敷くことを徹底的に実行するため、部落を定めて官民挙げて指導を行った結果、大きく改善することになった[11]。

いい米が出来上がればいよいよ販売である。収穫した米を「商品」にするためには検査をして品質を保証する必要がある。もっとも早く検査に着手したのは1909年(明治42)木浦商業会議所である。その後も各団体が独自に検査を実施したが、ルールや権威を欠いたため1922年(大正11)7月米穀検査規則を改正し白米の検査を励行した(1937年に総督府に管轄が変更され国営検査となる)[12]。

1912年(大正元)4月に移出税を撤廃し、1913年(大正2)7月内地の移入税も撤廃して積極的に内地への出荷を奨励した[13]。その結果、茨城、岩手、秋田、沖縄を除くほぼ全国に出荷されるようになり、東京に至っては約50万石にもなった[14]。

『朝鮮の米』『朝鮮総督府統計年報(大正14)』『朝鮮貿易要覧』『朝鮮の工業と資源』より作成

以上のようにして引用3の目標を着実に実行した結果、移出量は右肩上がり増加し、それに伴って移出額も528万円(1911年)から2億4400万円(1935年)と24年で約46倍に増えた[15]。これで逆に朝鮮が疲弊したと考えるは流石に無理である。


まとめ

・李氏朝鮮時代は米は商品ではなく、自分たちの食料だった。
・春なると備蓄米は底をつき、木の皮や草の根を食べて飢えをしのいでいた。
・日本は灌漑設備、品種、肥料、乾燥など様々な対策を行った。
・移出量は右肩上がり、金額も46倍に急増した。


出典
[1]国営吉野ヶ里歴史公園.“3.弥生時代の世界情勢”.https://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html,(参照2024-05-6)
[2]『朝鮮の工業と資源』,朝鮮工業協会,1937 p.2
[3]『朝鮮の工業と資源』,朝鮮工業協会,1937 p.2-3
[4]同上
[5]朝鮮総督府殖産局 編『朝鮮の土地改良事業』,朝鮮総督府殖産局,昭和2 pp.27-31
[6]『朝鮮の工業と資源』,朝鮮工業協会,1937 p.4
[7]朝鮮総督府殖産局 編『朝鮮の農業』,朝鮮総督府殖産局,1927 pp.41-42
[8]朝鮮総督府殖産局 編『朝鮮の農業』,朝鮮総督府殖産局,1927 p.43
[9]朝鮮総督府殖産局 編『朝鮮の農業』,朝鮮総督府殖産局,1927 p.119
[10]野口遵 述 ほか『今日を築くまで』,生活社,昭和13 p.87-107
[11]朝鮮総督府殖産局 編『朝鮮の農業』,朝鮮総督府殖産局,1927 pp.44-45
[12]『朝鮮の工業と資源』,朝鮮工業協会,1937 pp.5-6
[13]農商務省農務局 編『米ニ関スル調査』日本之部,農商務省農務局,大正4 p.371
[14]朝鮮総督府殖産局 編『朝鮮の農業』,朝鮮総督府殖産局,1927 pp.46-47
[15]『朝鮮の工業と資源』,朝鮮工業協会,1937 p.8


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