見出し画像

日帝が行った ”米増産” 土地改良事業  その3

その1その2と朝鮮米をめぐる変遷について説明しましたが、今回はインターネットによくある「疑惑」について具体的に検証していきたいと思います。




疑惑1「米の生産量は増えたが、それ以上に取られた」

まずはおおざっぱに傾向をつかんでおきましょう。下のグラフは米の総需要量(生産量+輸移入量)を表しています。黒は輸移出量で、総需要量から黒を差し引いた黄色は「消費量」を表しています。生産量だけが消費量だったかのようにイメージ操作しているサイトもありますが、中国や内地、外国から輸入していた分も含めなくてはなりません。

農林省農務局 編『米穀要覧』昭和5年4月,東京統計協会,昭和5-8 から作成
※図表1

消費量は減少傾向にあり、その代わりに輸移出量が増えています。一般的には売れるから売った、だから出ていった、年々商売として根付いていったと考えるのが普通ですが、「消費量が減ってるのは盗られたから」と考えることしかできない人もいます。では実際はどうだったのか、朝鮮総督府殖産局がまとめた『朝鮮の米』に答えがあったので解説していきましょう。

その1で説明した通り総督府の改革によって、都市部は商品としての米が着実に根付いていたが、地方においてはまだまだ古いしきたりのまま自給自足が続いていた。水田が多い地方は米や麦を常食し、畑が多い地方は粟(あわ)やその他の雑穀を常食とした。米の主要産地では米の収穫後は米のみを炊き、麦を収穫すると麦のみを炊くという食文化だった。

これが変わったきっかけは1919年(大正8)年に起こった大干害だった。総督府は食糧不足を解決するため、満州から粟の輸入を奨励した。これをチャンスと捉えた商人は168万石もの大量の粟を輸入した。朝鮮内に大量の粟が出回ると粟の価格が下がる。こうして粟と米との価格差が大きくなり、「高い米を売って、安い粟を買う」という流れができたのである。輸入品は粟だけにはとどまらず、安い外国米や台湾米も増加していくことになる[1]。グラフで確認しても粟の輸移入量は1922年から大幅に増えているのが分かる。

『朝鮮総督府統計年報』 から作成
※図表2

しかし粟の輸入分や、野菜など畑作物の増産分を考慮しても米消費量の減少を全て補うことは出来ない。これを解くヒントは「物流革命」にある。統監政治以降、国鉄や私鉄の鉄道網の整備、道路網の発達によりトラックや牛馬車などによって、市場価格をほとんど持たない米穀が全国で取引されるようになった[2]。つまり統計上現れない米を買って、商品価値の高い米を売るようになったから「一人当たりの米の消費量」は減少しているのである。

グラフでは「粟を沢山買った」「朝鮮米を沢山売った」という単純な事実しかわからない。逆に言うと原因や根拠はグラフからは絶対に分からないである。しかし作者がグラフから一つの答えを意図的に導き出してしまうと、読者はグラフが事実の根拠だと思い込んで簡単に騙されてしまう。作者本人が気づいてないかもしれないが、まったく悪質な行為である。


疑惑2「日帝が米を奪ったので春窮が増えた」

米の生産量が急増し、一人当たりの消費量減少の謎が解けても、「いやいやそれでも春窮は増えているじゃないか」と食い下がる往生際の悪い輩もいる。春窮とは春に米の備蓄が底をつくことである。その1の引用1の通り、朝鮮では春になると草の根、木の皮、土を食べて飢えをしのいでいた。

黃尙翼,李恩子,ファンサンイク,イウンジャ.日帝植民地期は朝鮮人の健康にどのような影響を及ぼしたのか : 植民地近代化論の虚と実

3.4月別死亡率
 食糧事情が窮乏する国家と地域では、季節によって死亡率の増減がみられる。すなわち、食糧が不足する時期(朝鮮の場合は春窮期)に月別死亡率が増加し、春の収穫が終わった後に死亡率が再び減少する傾向がある。日帝植民地時代の朝鮮人にはこのような現象が明らかにみられ(図6)、一方で、朝鮮に居住する日本人にはこのような様相はほとんどみられない(図7)。

p.156

「日帝の統治がすすんでも相変わらず春先の死亡率は高いままである。飢えていない日本人の死亡率が低いのが何よりの証拠だ」というのだ。では上の図から1932年を例に死因月別を確認してみよう。

朝鮮総督府 編『朝鮮総督府統計年報』昭和7年,朝鮮総督府,昭和9 pp.88-89 より作成

他の月に比べて3月~5月に多いのは呼吸器病と伝染病である。神経系病は一年を通して多く、夏以降は呼吸器、伝染病が減って、そのかわり消化器病が多くなっているのが分かる。つまり春窮の死亡率の上昇を主張するのであれば、春窮によって呼吸器病、伝染病が増えたことを証明しなくてはならない。低栄養状態によって免疫力が下がり、肺炎やインフルエンザ、腸チフスが増えたと果たして説明しきれるのか…かなり怪しくなってきましたね。

更に詳しく調べてみると1910年の統計に「発育及び栄養的病」という項目があった。1910年は統治直後なので春窮はまだあったと考えるのが合理的だし、春窮による低栄養ど真ん中の項目なので、これを見れば春窮の死亡率が分かるはずである。

朝鮮総督府 編『朝鮮総督府統計年報』明治43年度,朝鮮総督府,大正1 p.146 より作成

あれ?一年を通じてあんまり数字の変化はないぞ。どの月もたいして死亡者数は変わらない。つまりこれは、春窮はそもそも死亡につながる厄災ではないことを表しているのではないか。腹は減ったが木の皮や草の根でなんとかしのいでいたということだ。なので1932年の呼吸器病、伝染病の死亡率増加は低栄養(春窮)によるものではないという推測の方が信憑性が高いだろう。

まとめると、春先の死亡率の増加は伝染病と呼吸器病によるものである。朝鮮時代の春窮が残っている1910年の統計を確認しても、低栄養による死亡者数に有意差は認められない。つまり春窮は死亡につながる厄災とは言えないので、伝染病の増加は低栄養が原因である可能性が低いと推測できる。

日本人が朝鮮人と比べて死亡率が低い理由は、衛生状態や薪などの燃料の差に依るかもしれないがグラフからそれを読み解くことは出来ない。学問のふりしてしれっと嘘をついてくるので注意が必要である。


疑惑3「日帝は農民を儲けさせなかったので、小作農に転落した」

それではまず農民個人の収入はどのようなものだったのか、朝鮮総督府農林局農村振興課がまとめた『農家経済の概況と其の変遷 (小作農家の部)』で事実を見てみよう。

【収入】 1933年(昭和8)
○農業収入
 ・稲作:32.98円 ・その他:14.09円
○副業収入
 ・養蚕:2.25円 ・養畜:6.54円 ・縄叺筵:5.38円 ・その他:5.39円
○農業以外の収入:53.55円
───────────────
収入総計:120.18円

※引用1

【収入】 1938年(昭和13)
○農業収入
 ・稲作:79.12円 ・その他:32.74円
○副業収入
 ・養蚕:6.53円 ・養畜:16.16円 ・縄叺筵:14.18円 ・その他:6.09円
○農業以外の収入:60.00円
───────────────
収入総計:214.82円

※引用2

収入は単純に比較すると5年で94.64円(約79%)の増加していることが分かる。次に支出を比べてみよう。

【支出】 1933年(昭和8)
○農業支出
 ・肥料費:8.70円 ・雇用費:5.47円 ・その他:8.50円
○家事支出
 ・税金:6.14円 ・食費:16.58円 ・儀礼費:5.38円 ・その他:34.38円
○その他の支出:25.97円
───────────────
支出総計:111.12円

※引用3

【支出】 1938年(昭和13)
○農業支出
 ・肥料費:28.74円 ・雇用費:9.69円 ・その他:19.00円
○家事支出
 ・税金:8.24円 ・食費:14.99円 ・儀礼費:12.51円 ・その他:60.94円
○その他の支出:32.41円
───────────────
支出総計:186.53円

※引用4

「(総収入)-(総支出)」つまり手元に残るお金は、1933年は9.06円だが、1938年は28.29円と3倍以上になっている。食費が1.59円減少しているが、これは自給できる戸数が増えたためだと思われる(26%から61%に増加)。

イメージしやすいように現在の価値に変換してみよう。こちらサイトによると昭和初期の1円は企業物価指数で636円、白米の価格で818円となっているので、間をとって727円と仮定して計算してみると、1933年の収入は約87,240円、1938年は156,305円となる。これを見ると確かに多いとは言えないが、日本統治前の春窮(その1の引用1)のころと比べれば生活はかなり向上したと言えるだろう。

支出の項目をもう少し詳しく見てみよう。1928年『朝鮮』2月号「朝鮮に於ける貧富考察 / 善生永助」に細かい内訳があったので引用する。

明治43年 → 大正14年(比率)
米   105.45㌔ → 74.1㌔(70%)
小麦  13.05㌔ → 16.35㌔(125%)
粟   35.7㌔ → 52.95㌔(148%)
大豆  22.05㌔→21.45㌔(97%)
麦粉  0.025円 → 0.639円(2,556%)
水産物 0.596円 → 2.370円(398%)
獣肉  0.312円 → 0.910円(292%)
塩   4.26㌔→ 14.7㌔(345%)
砂糖  0.51㌔ → 1.872㌔(367%)
酒   0.09円→2.98円(3,311%)
たばこ 0.46円 → 1.65円(359%)
綿布  0.699円 → 3.129円(448%)
麻布  0.068 → 0.756円(1,112%)
絹布  0.082 → 0.608円(741%)
石油  0.541㌘ → 0.611㌘(113%)
マッチ 0.030円 → 0.104円(347%)
紙   0.043円 → 0.460円(1,070%)
窯業品 0.068円 → 0.768(1,129%)
石炭  10.284㌔ → ‭57.384‬㌔(558%)
綿花  0.2514㌔ → ‭1.092‬㌔(434%)
金肥 ‭ 4.845‬㌘ → ‭45.461‬㌘(938%)
牛皮 ‭ 8.4‬㌘ → ‭22.8㌘(271%)

※引用5
銭を円に、斤をキログラムに変換

唯一減少したのが「米」である(大豆はほぼ据え置き)。他はすべて上昇しているが、目立つのが酒の30倍、麦粉の20倍だ。これらは単位が「円」なので物価上昇分に注意しなければならないが、他の品目と比べても以前より多く消費したことは否定できないだろう。

では、酒が買えるのに米が買えない合理的な理由はあるのか?

恐らく無いだろう。

やはり商品価値の高い「米」を売って、麦粉や酒に消費したとみるのが自然だ。「日本は銃剣で収奪したのではなく、経済的に収奪した」は言いがかりのレベルだし、「カロリーベースで収奪があった」はなんとかして捻り出した知恵だ。その努力には敬意すら感じるレベルである。

とはいえ農民、特に小作農が貧しかったことは事実である。この原因についても考察しているので続けて「朝鮮に於ける貧富考察 / 善生永助」引用してみよう。

朝鮮でも内地と同様に、近年次第に土地の大規模化の傾向が著しくなり、大地主の数と小作農の数が増加し、農家数の中堅である自作農階級の次第に減少の傾向にあることは注目に値すべき問題である。

(中略)

しかしながら自作農が多い地域といっても、今後農業の進歩や経済の発達に伴い、決して現状のままに自作農の割合が維持され、もくは地主と小作の関係が円満であるとは考えられないのである。すなわち自作農が多い地方も、やがては新時代の経済潮流に捲き込まれ、産業組織の変遷にともなって、自然にその農業経済が地主と小作が多い地方と同じ状態になるとみるのが適当である。

(中略)

土地の大規模化が経済発達にともなう自然の傾向である以上、人為的に「自作農の創定」を行うことは労力の割に効果が少ないことは自明の理であるけれども、農業の健全なる発達を企図し、階級闘争の弊害を緩和する為めに、農家の中堅たる自作農階級の保護をはかり、その維持を行うことは、朝鮮においても勿論必要なことであるが、それと同時に、大農業組織の進歩した経営法を採用することも、また大いにすべきではないだろうか。

(中略)

地主階級においても、大営農業者は別として、中流以下の地主中には、近年物価高騰の影響を受け、また教育費及び各種の負担が急増し、一方においては身の丈以上の贅沢、見栄っ張りは依然として改まらず、体面を重んじ、勤労を卑み、生活レベルのみむやみやたらに向上して収入に対して支出の急激に超過し、土地を担保として借金をしたり、売却してしまうケースも自然とおおくなる。

(中略)

朝鮮においては現在のところ商業及び工業は極めて不振であるけれども、農家の業態を見ると、農業に従事するよりはこの方面または労働に従事した方が有利である。特に朝鮮外に出稼する者が多いことは最も注意すべきことであるが、水の低きに就くが如く、人は生活の楽な方にいくのが当然の成り行である。朝鮮人の鮮外移住者は、地理的関係上従来は、南鮮地方のものは多く内地へ、西北鮮地方のものは多く満州、シベリアへ移住したのである。

(中略)

朝鮮人は遠い昔より勤労を厭い、贅沢や浪費の癖があって、一般に貯蓄心が乏しく「その日暮し」と言うよりはむしろ「借金生活」を平気で繰り返し、貯金に余裕がある者は極めてわずかであった。その原因は色々の説があるが、労働者は今後の収入を目当てに、百姓は来る秋の収穫を頼りにして、高利の借金をし、甚だしいのは先祖伝来の借金を背負い、希望もなければ光明もなき陰惨なる生活を営んでいるものが多かった。併合以来、日本は各種産業の開発を起こすとともに、勤倹貯蓄の獎励を行った結果、国民の生活は次第に改善され、また貯蓄の思想は年とともに改善し、各種預金の金額も著しく増加して来たことはに喜ぶべき傾向である。

(中略)

古書の記録にしても、また現在の実情を見ても、朝鮮人はかなり射倖心の強い民族であることを知ることが出来る。だから朝鮮人は特に勤倹貯蓄の獎励を行うことが必要であり、各人が各々業に励めば貧民の数も次第に減るだろうし、収入が増えれば自然とその貯蓄も増えるであらう。「恒産無ければ恒心無し」、社会の健全なる発達を願うなら、まず民力の涵養を計ることが急務である。

(中略)

古来、朝鮮の貧困者の生活程度は極めて低く、農民でも窮農もしくは火田民は、端境季節に入ると、粗悪な穀物すら食べることができず、野生の木の実草の根などを食し、極端なケースでは土を食う地域すらある。乞食の数の多いことも驚くべきもので、中でも京城という大都市の目貫通りに、みすぼらしい乞食の群がっている様は、市街の各所に散在している土幕生活者の多いことは、人生の悲哀であり且つ文明の汚辱である。

(中略)

このようにして、現在朝鮮においては貧困に陥った多数の憐むべき同胞がいる。これを保護救済する様々な方法もあるが、私は、救貧よりも防貧を優先してまず仕事を与えて、職業訓練を振興し、各人は穏健質実に汗を流して働くという習慣を養うことが最も肝要であると信じている。

※引用7
旧字を変更、句読点を適宜追加、適宜現代語訳 

物価の高騰、教育費など削ることができない費用が急増した一方で、過度な贅沢をし、体面を気にする見栄っ張りな性格は変わらず、勤労を卑み、生活レベルをむやみやたらに上げてしまうので、土地を担保として借金をしたり、売却してしまうケースがあった。その結果、自作農は小作農へ転落したり、離農者も多くなるので大地主が自然と増えると。そして職を求めて内地へ…ごくごく自然な流れである。


疑惑4「日帝は農民の土地を奪った」

確かに農家収入は増えたが、内容はともかくとして貧しいことには変わりなかった。1930年の新聞記事にこんなのがある。

1930年10月8日
出典:大阪毎日新聞(1930年10月8日)所蔵:神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫

豊作受難
水利組合費だけも取れず
朝鮮で美田の投売り

昨今の朝鮮には立派な水田10町歩を2500円というべらぼうに安い値で売りに出したが、買うものがないというそのような農村の豊作受難を裏書する話がある。総督府は産米増殖計画で鮮内各地に水利組合の設置を奨励し巨額の工事費を投じ大貯水池や排水路などが出来て従来の如き洪水や旱魃の難を逃れることが出来たが、工事費起債により毎年多額の組合費を徴収され水利組合費の額は慶尚南道だけの例に見ても水田一反当たり毎年額約25円という重い負担の土地もある、一年反当たり収穫を5石として石4円50銭内外の籾の相場では22円の収入しかなく、これでは水利組合費反当たり25円には3円不足する上に、小作料、肥料代、各種公課金等で損になるので誰も買手が出ぬ訳で、朝鮮水利組合の経営をいかに改めるかは漸く問題になって来た(釜山発)

※旧字を新字体に、漢数字をアラビア数字に変換、句読点を適宜追加

1930年とは豊作飢饉が起こった年である。豊作により米が過剰供給になり、価格が暴落。農家は多額の借金を返済する為、土地を売りに出すがなかなか買い手がつかないと。水田10ヘクタール(東京ドーム約2個分)が現在の価値で約180万円でも全く売れないのは、収入に対しての支出が多い、つまり赤字になるからだ。国民の命、生活を守るために様々な改革を行い、米を安定的に生産できるようになったとしても、今度は天候や経済の原理原則や個人レベルの自堕落が原因で生活が苦しくなっていった。
※豊作飢饉に関してはその2をご参照ください


許粹烈.日帝下朝鮮経済の発展と朝鮮人経済
※図表3

上のグラフは「日帝」という文字からも分かる通り「米収奪」を主張している論文である。その論文でさえも1930年の日本人地主の急増は豊作飢饉により朝鮮人農家が、日本人地主に土地を売ったためだと結論付けている。普通の感覚で、普通に考えれば、普通に分かることだ。日帝がいなければもっと大変なことになっていただろう。

ダメ押しに「地主数」を確認しておこう。下記の円グラフは広さ1段未満~100町以上の地税納税者(地主)割合を割合を表している。

『朝鮮の経済事情 増訂版』.1929 6版 より作成
※図表4
『朝鮮の経済事情 増訂版』.1931 9版 より作成
※図表5
『朝鮮の經濟事情 増訂10版』 より作成
※図表6

年を追うごとに日本人が微増しているが、比較的狭い土地の地主は朝鮮人が圧倒的なシェアを占めている。では30~1000町の広い土地ではどうだろうか。下記は30町~1000町以上の地主をまとめたグラフになる。

浅田喬二 著『日本帝国主義と旧植民地地主制』,御茶の水書房,1968 pp.84-85 より作成
※図表7

朝鮮人4162名に対して、日本人870名と5倍近くの差がある。面積も朝鮮人340970町歩に対して、日本人216704町歩でこちらも朝鮮人の方が多いという結果である。


疑惑5「民族的な差別があった」

さて、許粹烈教授(忠南大学校経商大学経済学科)の『日帝下朝鮮経済の発展と朝鮮人経済』を引用したので、もう少し中身を見ていくことにしよう。まず許教授はこの論文のテーマを「民族別に極度に不平等に所有され、また時間の経過によりその不平等度がより一層深刻になっていったという点と、民族差別が構造的に存在していたという点」としている。つまり「日本人と朝鮮人の取有する土地に不平等があった(それを可能にする構造があった)」ということだ。あれ、日本統治時代の朝鮮って社会主義でしたっけ?日本統治下の朝鮮は自由な経済活動を標榜する資本主義だったように思うのですが…もうスタートの前提から訳が分からないことになってますが気を取り直して読み進めてみよう。

許教授は図表3のように日本人の土地所有者が増えたのは、農業恐慌により朝鮮人地主が日本人に売ったからだと認めているが、これは「肥沃度」が考慮されていないと指摘している。もう何がなんでも日帝が悪いという数字を出そうという執念をビンビン感じるわけだが、しかし朝鮮人地主が日本人に土地を売却したという流れは間違いないのだから、日本人所有の土地の肥沃度が高くてもそれは「朝鮮人は肥沃な土地を手放した」という結論にしかならない。通常な経済活動において、正当な方法で入手した土地を「朝鮮人だから」という理由で返還(無償供与)することがない限り、その差が出ることはむしろ当然の帰結である。

許教授は日本人が多い水利組合と、朝鮮人が多い水利組合を比較して、収穫量の比較を行っている。

p.277

施工前の一反歩当たり収穫量は、朝鮮全体の一反歩当たり平均収穫量とほとんど類似しているため、結局水利組合区域内の日本人田の一反歩当たり収穫量は全体平均の約3倍に達することとなる。

p.277

小難しく論じて煙に巻かれている感はあるが、要するに「施行前の収穫量は同じくらいなのに、施工後は3倍になっているこれは不公平だー」と…それは純粋に努力というんですが^^;


ところで、日本人所有田の9割は朝鮮人小作農が耕作するが、そこでは生産された米穀のうち、55%だけが日本人地主が受け取り、残り45%は朝鮮人小作農が受け取ることとなる。つまり、日本人所有田で生産されたものに0.9と0.45をかけた値、すなわち1910年には3.65、1944年には33.31を朝鮮人地主取分として付加し、日本人地主取分から引けば、民族別取分が計算できる。

p.280

地主と小作の関係は、簡単に言うと下請けやサラリーマンの様なものである。儲けのうち、依頼主や雇い主の利益を差し引いて支払われ、依頼主や雇い主がより多く利益を得ることは至極当然のことである。そこを問題視するならそもそも資本主義という国家の経済システムを批判すべきであろう。資本主義をある意味肯定しつつ、社会主義的な視点からこれを否定するのは、批判するためにデータを意図的に作り上げていると指摘せざるを得ないだろう。


日本人所有地で小作する朝鮮人小作農の取分が、1910年の3.65から1941年の33.31へと大きく増加したため、朝鮮人取分が増加した。言わば、朝鮮人は生産手段である土地の所有から次第に排除されることで、生産手段の所有から発生する収入部分は縮小し、労働によって得られる収入の部分は増加したのである。

p.281

小作農の取り分が増えたということは、地主が減ったということだと。それは教授自身が農業恐慌の為に土地を売ったと認めているではないか^^;


一方1910年と1941年の間に朝鮮の農業人口も変わった。まず民族別一戸当たり収入を見ると、朝鮮人の場合5.41石から4.60石へ0.81石(15.0%)減少したが、日本人の場合は338.13石から963.55石へ625.42石(185.0%)増加した。農業人口一人当り収入を計算してみると、朝鮮人の場合1.21石から0.81石へ0.40石(33.2%)減少したが、日本人の場合104.60石から204.51石へと99.91石(95.5%)増加した。農業人口の変化まで考慮すれば、民族別農家一戸当たり収入の格差は1910年の62.5倍から1941年の209.4倍に拡大し、民族別農業人口一人当り収入の格差は1910年の86.3倍から1941年の252.5倍に拡大した。

p.281
p.282

1941年の農業人口一人当り農業収入は、朝鮮人が103円、日本人が9,909円である。日本人の農業収入は朝鮮人の96倍にもなる。

p.283
p.284

統治から30年を通して朝鮮人の収入は減少し、日本人は増えたと。答えの導き方に不確かな仮定が入り、そこから全体量の比率を出すという計算方法を採用しなければならない理由が全く不明である。本ブログの引用1~5のように当時の調査が残っているのでなぜそれを採用しないのか甚だ疑問が残る。この点からも許教授の見方は意図的であることを指摘しておきたい。まぁ、仮に許教授の主張が正しいとしても、努力して働けとしか言いようがない。当時の考察である引用7でも「朝鮮においては貧困に陥った多数の憐むべき同胞がいる。これを保護救済する様々な方法もあるが、私は、救貧よりも防貧を優先してまず仕事を与えて、職業訓練を振興し、各人は穏健質実に汗を流して働くという習慣を養うことが最も肝要」と実直に汗水流して働きなさいと指摘している。

収穫量やそれに直結する収入を、肥沃度などに求めようとする視点は否定しない。しかし我々は機械ではなく生身の人間である。技術、熱意、勤労、勤勉さなどは統計などの数字には表れないが非常に大きな要素である。この視点は当時から度々指摘されているのでその一部をご紹介しよう。

朝鮮人労務者の短所
 ・因習上責任感が薄い
 ・怠惰性が強い
 ・移動性が高い
 ・能率が悪い

大蔵省管理局 [編]『日本人の海外活動に関する歴史的調査』3,高麗書林,1985.6. pp,46-47 より

『日本人の海外活動に関する歴史的調査』は朝鮮人労働者の特性の証拠として採炭量の差を実例として挙げている。朝鮮人工夫の採炭量は1942年(昭和17)101トン、1943年(昭和18)95トン、1944年(昭和19年)104トンに対して、日本人工夫は160トンなので約6割に留まっているということである[3]。引用7やその1の引用1でも同じようなことが指摘されているが、このような指摘は枚挙に暇がない。いくら数字をこねくり回しても当時、実際目にしたことに勝るものはないだろう。


疑惑6「日帝は農民に重い税金をかけていた」

ここまで説明すればこれも根拠のない嘘だとすぐに分かりますが、折角なので詳しく見ていきましょう。小作料や地税は以下の方法で地主と決定しておりました。

定租法
収穫量に関わらず毎年一定額の小作料を収める方法。主に畑で行われた。地税は地主負担。

執租法
地主もしくは舎音(管理人)と小作人が立会いのもと、収穫前にその収穫量を予想して小作料を決定する方法。地主が収穫に立ち会わなくてもいいというメリットがあった。小作料は朝鮮人地主で6割、日本人地主で4割5分ほどだった。地税は地主負担。

打租法
地主と小作人が立会いのもと、実際の収穫量を見て決定する方法。二毛作の場合は裏作には基本的には適用しない。自給肥料は小作人負担、購入肥料は小作人と地主の折半。地税は名義上本来は地主が負担するはずだったが、小作人が負担することが多かった。

朝鮮総督府殖産局 編『朝鮮の農業』,朝鮮総督府殖産局,1927 pp.158-159

多くの地主は打租法を採用しており、小作料の他に、本来は地主が負担すべき地税、水利組合費、舎音(管理人)の報酬も小作人が相当負担していた。当時から「地主の専横に服従するのは止むを得ざる」と両班と奴婢のような関係性を指摘されている[4]。小作争議の応急措置として1933年(昭和8)2月朝鮮小作調停令を制定する。さらに小作慣習の悪弊を一掃するため1934年(昭和9)4月11日朝鮮農地令を公布する。この法律は小作地借地権の確保、小作農の地位安定、舎音制度の弊害を矯正、地主対小作の対立闘争を治めて農村の平和維持を目的とした[5]。

つまり、小作人に重い小作料、地税、水利組合費あれもこれも課したのは全て地主の仕業だったのである。では朝鮮の地主がどのようなものだったのか、李氏朝鮮時代まで遡って両班の暴挙とそれに反発した農民の戦いの一つをご紹介しよう。


暴虐非道な両班李廷珪

1893年12月忠清南道の両班の李廷珪が農民に襲われ、豪邸が焼失するという事件が発生した。

事件は一体どのような経緯で起こったのだろうか。

李は林川郡に生まれたと言われ、幼くして京城の李顯稙のいとこの養子となった。もともと能力が高かった彼は順調に出世を重ね、中央政府の武官となった後は忠清道徳山郡守、次に平安道宜川府史、更に全羅道左水軍節度使、全羅道兵馬節度使を歴任した。任期終了後は合徳里に豪邸を構え、一族と何不自由なく悠々自適に暮らしていた。しかしこの幸せな暮らしも僅か二か月で終わることになる。

李は付近の農民に対して税金を厳しく取り立てていた、と言えばまだ聞こえが良い方で、はっきり言えば犯罪同様の暴君であった。少しでも金を持ってそうだと見れば農民を捕まえて、残酷な処置を加え、財産を没収することが常態化していた。

釣りが趣味だった李は、いつもお気に入りの釣り場(合徳池)で釣りをしていた。ある日そこへ一人の農民がやってきて、何とかして財産を還してほしいと李に迫った。しかし李はその訴えを聞き入れず、農民を無下にあしらった為、もみ合いになり、農民はこのまま李と一緒に深淵に身を投げようと決心した。しかし李も必死で抵抗した為失敗に終わった。その農民は後日身投げしたという。この事件は「李が農民を足蹴りして突き落とした」と吹聴されたので農民達の怒りはますます高まった。


ため池を巡る悪行

その1でも解説した通り、朝鮮は雨が少ないので「堤堰(ため池)」は非常に重要な施設であった。この地方には「合徳池」と呼ばれるため池があり、六つの村、700ヘクタール(東京ドーム150個分)に水供給していた。米の生産額は22,300石に上り、三大堤堰と言われるほどであった。農民たちにとっては先祖代々受け継ぐ「生命の池」で、破損や決壊があれば深夜でも鐘を打ち鳴らし、老若男女総出で修繕を行った。

この「合徳池」が金になると睨んだ李は、農村相互扶助的共同組織の「長」という立場を利用して、池の浅瀬を開墾して水田にし、深い所をため池にして、更に水税を住民の課そうと企てた。

この噂を耳にした農民は、ため池の工事は農作物に深刻な影響が出ることや、更なる重税はこれ以上堪えられないと約800名で地方官に窮状を訴えた。一方農民達の動きを察知した李は、郡守に対して訴えに出た農民達を全員殺害するように依頼した。しかしこの李の殺害依頼が、農民達の耳に入ってしまうことになる。


農民たち怒りの鉄拳

寒風吹きすさぶ12月の晦日、李の暴挙に痛憤した農民達は大集結した。あちらこちらで火が焚かれる中、農民達は日々の横暴や重税に対する不満の声を上げた。午後8時ついに鐘が打ち鳴らされた。数千名に膨れ上がった農民達は松明や藁の束を担いで、雄叫びをあげながら李廷珪宅に向かった。李宅を包囲した農民達は代表者を送って李と面会した。農民代表者は数々の横暴、重税を詰問し、行動を起こした我々を殺害しようとは何たることかと厳しく問い詰めた。

李は初めはのらりくらりとはぐらかす態度取っていたが、数々の証拠を突き付けられて、遂に己の過ちを認めて謝罪するとともに、これからは態度を改めて村の為に協力すると繰り返した。しかし農民代表者は、李の態度の急変は詭弁であり問答無用だと立ち上がった!

邸内にひしめく農民達はまず便所に火を放ち、続いて客間に松明を投げ込むと藁束を次々に投入した。炎は瞬く間に十数棟の家屋に燃え広がった。炎々たる焔は付近一帯を真昼の如く赤く染め、その火炎は遠く雲山里からでも望めるほどだったという。

李は辛うじて奥間に逃れ、父の位牌と妾の子を脇に抱えて、凍りついた合徳池の上を駆けた。農民達は李を逃すまいと追跡したが、彼は普段から借力(朝鮮の鍛錬方法)で体を鍛えていたため、常人とは思えないほどの脚力で逃げ切られてしまった。その後も農民達は付近を捜索したが結局李を捕まえることはできなかった。


事件のその後

李はその後、すきを見て京城に逃げたところ政府に捕まり、2年間の島流しに処されたという。

農民の代表者であった羅聖魯、李永鐸の二人は翌年の2月に起きた東学党の乱に参加している[6]。もしかしてこの事件で彼らの心にスイッチが入り、日本や中国を巻き込んだ大騒動が起きたのかもしれない。

この事件がこのように残されているのは、身分的被支配層である農民が、貴族支配階級である両班に対して実力をもって抵抗をした特異性にある。両班が農民に対して奴隷的な扱いをすること自体は珍しいことではなかった。


まとめ

・そもそも大前提として強制的に収奪したという法令、行政命令など全くない。
疑惑1「米の生産量は増えたが、それ以上に取られた」
→答え「干害がきっかけになり、安い粟、外国米、麦粉などを買い、作った米を高く売って商売した」
・疑惑2「日程が米を奪ったので春窮が増えた」
→答え「春期の死亡率増加は呼吸器病と伝染病によるもので春窮は関係ない。春期に死んだから春窮だなんていうのはあまりにも雑な理論」

疑惑3「日本は農民を儲けさせなかったので、小作農に転落した」
→答え「農家の収入は倍近くになり、酒の購入費は30倍になった。しかし生活レベルを下げることが出来ず、借金返済のため土地を売ったので小作農に転落した」
・疑惑4「日帝は農民の土地を奪った」
→答え「米の価格が暴落し、借金返済のために日本人に土地を売却した」
・疑惑5「民族的は差別があった」
→答え「資本の差はもちろんあったが、努力や能力の差が大きかった。そもそも民族による差をつけようという政策はしていないので、この視点自体が全く無意味」

疑惑6「日帝は農民に重い税金をかけていた」
→答え「地税や水利組合費は本来地主が払うもの。地主はそれを農民に負担させていた。日本はそれを止めさせようと努力した」
・日本統治下で起こったことを全て日本の責任にするのはどうかしているのではないだろうか。


出典
[1]『朝鮮の米』,朝鮮総督府殖産局,1923.3-1927.3 pp.44-45
[2]『朝鮮の工業と資源』,朝鮮工業協会,1937 p.15
[3]大蔵省管理局 [編]『日本人の海外活動に関する歴史的調査』3,高麗書林,1985.6. pp,46-47
[4]朝鮮総督府殖産局 編『朝鮮の農業』,朝鮮総督府殖産局,1927 pp.160-161
[5]『朝鮮の農業』,朝鮮総督府農林局,1939 pp.215-216
[6]久間健一 著『朝鮮農業の近代的様相』,西ケ原刊行会,昭和10 pp.64-76

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?