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日帝が行った ”米増産” 土地改良事業  その2

今回は1930年以降の動きについて解説します。前回の1910年~1930年は「0の状態から色々整備し、全てが順調な時期」で、1930年以降は「気候や世界経済、国家統制など様々な影響を受けた時期」、この大まかなイメージを掴んでご覧ください。




農家を襲った厄災

ほぼ順調にいっていた朝鮮の稲作ですが、1930年(昭和5)に入ると豊作飢饉が朝鮮半島や内地を襲った。豊作飢饉とは豊作のため供給過剰になり価格が暴落、作れば作るほど赤字になり、豊作なのに農民の生活が苦しくなるという厄災である。農作物を売っても労賃にもならないと言われる程で農家は借金は膨らみ続けた。

1932年6月14日
京城日報

「(朝鮮農家の)個人賃借も相当莫大なる額に上る見込みで、全鮮農家の70%が借金に悩まされて居るが、当局者の談によると一戸当り先ず200円見当の負債を背負っている模様である」

ちなみに日本の農家はどうだったのか。下記の新聞は29道府県60町村の調査を報じている。

1933年2月14日
出典:時事新報(1933年2月14日)所蔵:神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫

「(日本の)一農家当り負債額は自作農最高で1059円、次は自小作農の987円、小作農403円で、平均一農家当りの負債は813円である

金額だけを比べてどちらが酷いかとは一概に言えないが、日本農家は朝鮮農家の4倍、小作農だけで比べても倍の借金を背負っていた計算になる。この昭和農業恐慌ともいわれる北日本の大不況の原因は、豊作飢饉による米価格の暴落、冷害、三陸津波などの厄災が次々と襲った為である。農家は土地を売り、失業者は都市部に職を求め、欠食児が相次ぎ、女の子の身売りが行われた。


「収奪」と真逆?日朝の対立

『台湾の米』,台湾総督府,1935,「内地ニ於ケル内地米、朝鮮米及台湾米ノ価格」より作成
『朝鮮の米』『朝鮮総督府統計年報(大正14)』『朝鮮貿易要覧』『朝鮮の工業と資源』より作成

昭和農業恐慌は外米、とりわけ朝鮮米の流入も大きな原因の一つであった。1927年(昭和2)、1930年(昭和5)の豊作で米の価格が大暴落しているにもかかわらず、朝鮮からの移出量は右肩上りに上昇している。日本農家の米の域外移出量は1200~1300万石に対して、朝鮮の移出量は900万石で、これは内地米移出量の70%以上に匹敵する規模であった[1]。そもそも日本農家は価格の下落を防ぐため、自然と生産制限を行っていた[2]。つまり商品価値を守るために自主的な努力をしていたところ、大量の朝鮮米が流入したわけである。この問題に対して日本政府は日本農家本位で保護政策を打ち出していくことになる。


もう「収奪どこいった」ってぐらい真逆の構図である(苦笑)


日本政府の対策

さて、日本政府は日本農家本位でこれを保護していくという方針であったが、朝鮮の反対もありなかなかスムーズにはいかなかった。

1930年10月8日
出典:大阪毎日新聞(1930年10月8日)所蔵:神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫

米穀政策につき7日の閣議で大体の了解を得た町田農相は、同日午後上山満之進氏と農相官邸で会見、引続き小阪拓務次官と会見、さらに帝国農会、道府県農会、農政協会などの代表と会見、実行せんとする農相腹案の一部を示し、意見を交換しさらに午後6時官邸に浜口首相を訪問、種々報告したが小阪拓務次官の意見によると農林省が鮮米に対してとらんとする

一、鮮米の月割移出
二、外米関税引上げ
三、満洲粟の関税引上げ

などのうち鮮米の月割移出には今回500万円の低資融通を仰いだが、1900万石と500万石からの大増収を見た今日となっては焼石に水で、25万石や30万石入庫調節では全く何等の功を奏しないこと明らかで、更に500万円乃至1000万円を増額する必要がある、また外米関税の引上げは可能だが粟に関税を課して輸入を制限することは北鮮方面の粟を常食とする鮮人を圧迫することになり、これに鮮米を代食せしめんとするも粟の方が価格頗る安く経済的に見て絶対に不可能であると反対したため、折角の農林省の鮮米対策において約170~160万石を輸入する粟を駆逐することが不可能になり、それだけ鮮米の内地移入量を増し意外なる障害に直面することになった、よって結局朝鮮総督府から関係官を至急招いて対策を議することになったがこの模様では朝鮮に対してもまた最低500万円見当の米穀調節資金を融通しなければならなくなる模様である。

※旧字を新字体に、漢数字をアラビア数字に変換、句読点を適宜追加

政府は満州粟の関税を引き上げて、朝鮮内で自家消費を増加させ内地への移出を減らし、米の価格を安定させようという狙っていた。しかしいくら米の価格が安いと言っても、粟よりは高いので粟を常食とする朝鮮人に大打撃を与え、更に農民の生活を圧迫する恐れがあるとして総督府が大反対をした。

とは言っても、総督府は政府の意向は完全に無視することは出来なかったようで、自主的な制限は相当やっているとアピールしていた。

1931年2月25日
出典:大阪毎日新聞(1931年2月25日)所蔵:神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫

(24日朝鮮総督府農務課発表)朝鮮における1月末現在の米価対策の実績は、246万1000石で融通資金は1900万300円に達し、米価対策計画に比し保管数量において7割9分の実績を示したため、本年1ヶ年の総移出量を800万石と予想し、11月より2月上旬の間の内地への移出米は286万3913石となっているから3割6分に相当し、これを前年1ヶ年間の移出総量542万6499石その11月より2月上旬の間の移出量270万3409石、即ち5割であったのに比すると移出量において1割4分即ち113万石を減少し移出統制が行われたこととなる

※旧字を新字体に、漢数字をアラビア数字に変換、句読点を適宜追加


日本政府は総督府の大反対にあいながらも6月には米の生産調整、価格の調整、朝鮮米の内地移出統制は絶対に断行しなければならないという空気になっていた。

1932年6月10日
出典:大阪毎日新聞(1932年6月10日)所蔵:神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫

一方、主要農産物たる米については、今直にその価格吊上を行う時はただ地主と商人のみに利益を与うるにとどまり、一般農民は現在のところ米の貯えがないこととて、その恩典にあづかり得ないので、その応急的の処置は講ぜず、今秋における米の収穫期から実施出来るよう根本的の対策を樹立する□に方針を決した。而して現行米作法の運用だけでは米価の引上には殆ど効果がないので、同省首脳部では米穀法の改廃を断行すると共に、新たに朝鮮米および台湾米の内地に対する移入管理を決行する意向を有するもののごとくである。

(中略)

しかして難関は朝鮮および台湾両総督府ならびに拓務省を得ることであるが、窮乏の極に陥っている内地農民救済のため、農林省では全力を尽くしてこの難関を突破し所期の目的を達したいと意気込んでいる

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9月に入ると政府はその具体的な方法について、いよいよ本腰を入れて案を練り始める。

1933年9月8日
出典:大阪毎日新聞(1933年9月8日)所蔵:神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫

米穀統制法の実施期に当面した農林省では、さらにその効果の万全を期するため、米穀生産統制の実現を期すべく、7日農相官邸に関係官会議を開き後藤農相、織田、石黒両次官、松村参与官、長瀬農務局長荷見米穀部長など参集し、内地外地を一貫する生産統制策につき審議したが、従来の米穀政策は増殖計画を主眼とし内地、植民地ともその効果著しく、今や転じて過剰生産に悩まされるという状態に立至り、ここに増産米計画の一大破綻を来すに至ったが、現下の過剰米対策はむしろ外地に米の生産統制を断行しなければほとんど意味をなさぬのみか、米穀統制法の効果を期待し得ないという主旨にもとづき、9月末までに農林省の具体案を作成、拓務省と折衝の上国策としての増産米政策に一大転換をなす方針を樹立することとなった。

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いままでは日本も朝鮮も米を増産することが目的であった。先述したように日本農家は価格の安定が目的であったが、自主的な生産制限により、増え続ける人口の食料が確保できなかった。そこで日本政府は外地から米を移入して不足分を補った。日本内地の食糧問題に朝鮮米が寄与したことは事実である。しかし、豊作により価格が暴落し、それでも増え続ける米に対してはどうしようもない。日本政府としては朝鮮米の移出統制は断腸の思いであっただろう。

続けて大阪毎日新聞を引用します。

第二 朝鮮産米統制策
現在行われている朝鮮の産米増殖計画は、大正15年に樹立された第二次計画によるものであって、その内容は12ヶ年計画、すなわち昭和12年までに3億5千余万円の事業費を投じ、35万町歩に亘る土地改良事業を完了し、820万石の増収を企図したものである。この計画が進行するならば1500万石の輸移出額に達するは明かであるから、既着手分は継続せしめるとしても繰延または未着手の改良事業はこれを断然打切り、代作物として棉作を奨励する方針である

(中略)

しかして全版図を通ずる米穀の生産統制計画は国防上の関係もあり後藤農相はこの点を考慮し弾力性ある食料自給策をも加味せんとしているが耕地を許可主義とするや否やについてはさらに考究を重ねることとなった。

※旧字を新字体に、漢数字をアラビア数字に変換、句読点を適宜追加

朝鮮米の増産計画は白紙に戻し米の代わりに綿花の栽培を奨励すると。食糧自給(食料の独立)は国防、国際関係を考えれば絶対に確保しなければならないが[3]、いくら国と言えども「天候」をコントロールすることは出来ない。

そして翌年の1933年(昭和8)年3月23日ついに従来の米穀法が廃止され、価格統制をより強力にした『米穀統制法』が成立する。

1933年3月29日
出典:東京朝日新聞(1933年3月29日)所蔵:神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫

農家の主要生産物であり国民の主要糧食である米の価格を自然に放任しておくことは国民経済上許し難い。そこで米の需給と価格の調節をはかるため米穀法が制定せられたが、しかしそれではまだ完全に米穀の統制を計る事はできず、もっと徹底的な統制を実現する必要があるというので出来上がったのがこの議会を通過した米穀統制法である。昭和5年あたりから農村の窮乏がますます深刻となり米価も暴落して、生産費さえも償わないといわれ、農民はいよいよ困って来た。例のややこしい率勢米価の規定があるこれまでの米穀法は、欠陥が多いため買上をやって米価を維持しようとしても常に農民に生産費だけの米価を保障してやるとも困難であった。

所が今度の米穀統制法は最高最低価格を公定して、いつも米価をこの最高最低価格の間に追い込み安定させようというのである。そして最低価格は米の生産費を中心に、一般物価その他の経済事情を参酌して定め、生産費以下には米価を落すまいというのだから、今までの様に全家族の労力を総動員して雨にも風にも真夏の烈日にも汗水たらして作り上げた米の価が、労賃さえ償ってくれないようなことはなくなろうというものだ。ここに農産物価格政策としての又農村救済策としての米穀統制法の重要点が置かれている。

斯く最低価格によって農業経営の生命線が防護せられる一方、家計米価、物価その他の経済事情を参酌して決定せらるる。最高価格以上に米価を騰らせぬようにして一般消費者の利益をも考慮している。従来の米穀法でも率勢米価の下値二割とか上値二割とかに基準をおいて、米の買上や払下が行われることになっていたが、常に必ずしも下値二割になれば買上られるというわけではなかった。ところが新米穀統制では第三条において政府は必ず最低価格による売渡の申込みに対してはこれを買いれ、最高価格による買入の申込に応じては米の売渡をなさねばならぬことを規定し、最高最低価格の間に米価を維持することになっているので、少くとも米穀法に比すれば強力な米価維持策といえる。

(中略)

右の外道府県、朝鮮台湾におけるそれぞれの出回り調節、自治的統制も本法の特色とするところであり、ただ台鮮米の統制が甚だ抽象的に規定せられているので、衆議院で政府は本法所期の目的を達するため朝鮮米、台湾米について更に徹底的方策を講ずべしとの付帯決議をつきつけられた。

※旧字を新字体に、漢数字をアラビア数字に変換、句読点を適宜追加

家族を総動員し「雨ニモマケズ、風ニモマケズ、夏ノ暑サニモマケズ」汗水たらして作り上げた米なのに、売り値がその労賃さえ償ってくれないようでは困るということだ。外地には外地の事情があるので、自主統制なんかほぼ無理に近い要求ではあるが、これはやらなければいけないという決意である。

この動きは当然、朝鮮においても一大関心事項であった。なんせ生活が懸かっているわけであるから、移出統制を「朝鮮米差別」と呼び、日本政府に強力に抗議した。

1934年2月15日
東亜日報

総督を引き出して日本政府に抗議さようともしていた。日本政府と朝鮮農家の板挟みにあった総督の心労をお察します^^;

1934年3月7日
朝鮮新聞

【大邱】予算案調査研究のために3日間=休会暫く息抜きしていた慶北道会も5日から本格的質問戦の火蓋を切る事となった。定時におくれて15分=議長着席本日の出席38名、欠席7名と報告開会を宣し、鬱陵島司の謝電、京畿道会より鮮米統制案反対電報を野田屬より朗読をしめて予算案の審議、第一読会に入るその時李鉉敏(英陽)本道会には珍しい鮮語で発言を求め、吾々国語を解せぬ二、三議員のために一々通訳を附されるために、非常に時間が不経済となり会議空気も折角緊張味を欠く嫌いがあるからと通訳廃止動議を提出、勿論多数議員の反対があるはずなく、通訳廃止に決定、李君また男を挙げるそれより崔潤(慶州)沈相完(青松)小川(大邱)等が予算案の配布や審議方法について希望意見を述べ、たが、承知しました。御意見ではかるありますがと、議長を軽く受け流す。
▲入山昇(漆谷)より緊急動議ありと発言を求め刻下鮮米統制問題も2000万民衆の悲痛な叫びとりこれが反対陳情運動が可なり力強く行はれたにも拘らず、中央政界の雲行き甚だかんばしかざる情勢にある。この上は吾人絶対信任して居る朝鮮総督宇垣閣下の御奪起否御上京を願ふ意見書を提出したいと快弁に一段の力を入れてまくし立てれば満場、空気緊張
▲小口肇(大邱)君 亦過日生糸間題陳情のため上京し、その節内地某有力者の話を聴いたが農林大臣は内地農民救済のため職を賭して外地米統制案なるものをデッチ挙げたものですかゝるが故に、朝鮮総督も職を賭して敢然反対の意志表示をなしたなら敢えて本問題解決も難事ないと云はれた吾人も至極同感と思つて居る矢先きです、入山君の動議を絶対支持する
と述べ次で武尾偵蔵(大邱)もまた語調に一段の力を入れて賛成演説をなし議長より動議提出の入山君小口君外三名の起草委員を指名…

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そして遂に商工会議所、穀物連合会取引所連合会、鮮米擁護期成会など複数の団体が上京して直接抗議をする。

1934年3月10日
京城日報

外地米統制問題は遂に全く白紙に帰り、第三案作成によって意見の一致を見、きょうの関係閣僚会議において正式決定を見る筈であるが、それによれば、農林省側の主張していた法的数量制限、移出商免許制案等は完全に影を潜め、内地米穀需給特別会計限度を4億5千万円だけ拡張し、総額11億5千万円としその内1億5千万円を外地米買入資金に充当して所謂買上管理を実施せんとするものの如く、その方法は半島側が多年強調して居った内外地一貫統制案と一致し茲五旬に亘って血みどろの鮮米擁護運動をつづけ来った半島官民の辛労が報いられたわけで、鮮米擁護期成会その他の民間団体は漸く朗に愁眉を開いた形である尚期成会宛東上委員からの9日午後9時発電文は左の如し
 『妥協の曙光見ゆ、外地特別会計を廃し之を内地の資金に入れ買上は農林省の所管とす外地米に対し法的制限又はプール案等は行わず右案は明日(九日)の閣議にて決定の筈』

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1934年3月20日
京城日報

鮮米擁護の第一線に立ち、苦闘五旬の活躍をおえた鮮米擁護期成会東上委員三井栄長氏は十九日朝帰城したが左の如く語る

鮮米移出統制は既に御承知の通り、本年度では米穀統制法の資金拡充と外地米買上の強化に落着いたが、これは要するに移出統制問題の2年間休戦にすがぬ。外地側の白熱的反対と折柄の政界のデリケートな動きから、一ヶ年を延期したもので、すでに農林省でも公表している如く米穀根本対策上、外地米統制を不可分との見地で引続き対策を練っている。従って朝鮮側としても油断すべきではなく、断乎たる対策を樹てて之に臨むべきである。これが為には朝鮮米穀調査会の如きを新設し慎重に対策を進めるべきと思う、なお今回の運動で特に痛感した事は内地における帝国農会の如き純民間の強固な輿論を代表する機関の必要を痛切に感じた、現在の朝鮮農会を、民間団体にする計画は常に力説されるところだが、今回の経験は右の急務なる事を東上委員一同痛感せしめられた

※旧字を新字体に、漢数字をアラビア数字に変換、句読点を適宜追加

日本が朝鮮米の買い上げを強化することで落ち着いた。でもこれで油断すべきではない。朝鮮側は断固として戦うと.…。つまり今の韓国風に言い換えると「今回は日本に収奪を強化させることで落ち着いた。朝鮮側は日本が収奪するまで断固として戦う!」ってことか。


三井栄長の功績

朝鮮の視点から朝鮮米を守ることに見事成功した三井栄長(みついひでなが)だが、彼について少し触れておくべきだろう。

朝鮮功労者銘鑑刊行会 編『朝鮮功労者名鑑』,民衆時論社朝鮮功労者銘鑑刊行会,1936 p.428 より

三井栄長は1879年(明治12)山梨県日野春村(現・北杜市)塚川で生まれた。東大農科大学(現・東大農学部)を卒業後、1910年(明治43)に総督府農務課に入って以来約20年間朝鮮米の増産、品質向上及び農村の建設に従事してきた[4]。当時朝鮮米は産額800万石に過ぎなかったが、三井氏の就任中に産額1800万石、移出800万石を達成した。1930年(昭和5)に総督府を依願退職後、不二興業に就職。引き続き朝鮮に残って朝鮮米の発展のために力を注ぐなど、その功績は「朝鮮米の三井か、三井の朝鮮米か」と称されるほどであった[5]。しかし終戦時に朝鮮農業会を解散した際の処理の責任を問われて、アメリカ軍により西大門刑務所に収監され[6]、懲役6カ月執行猶予2年の判決を受けた[7]。1952年(昭和27)73年の生涯に幕を閉じる。帰国後彼がどの様に過ごしたかまでは追いきれなかったが、平穏な余生であったことを願って止まない。


日本の貧困者対策

さて、本ブログ最初に引用した新聞記事には、総督府の貧困者対策についても書かれている。

1932年6月14日
京城日報

6500万円の効果は?
6年度貯蓄は一人33銭
農村ことに小農の窮乏甚だしく『農村を救え』の声は今や全国に蔓延しているが、これら窮民の為に昭和6年度(1931年)以降3ヶ年間6500余万円の巨費を投じて継続施行されている救済事業の効果はどうか?即ち本府当局の調査によると、6年度の経費は屢報のごとく2200万円で12月末までの実績は、使途延人員650万人、支払い労銀350万円(一人当たり55銭)となっている。しかし労働者に対しては事業の性質上努めて所得の一部を貯蓄せしめていたが、貯蓄人員64万人、貯蓄額21万(一人当たり33銭)にして、まず相当なる効果を収めているとみることが出来る。

※旧字を新字体に、漢数字をアラビア数字に変換、句読点を適宜追加

この「窮民救済土木事業」は不況に苦しむ農民を救うため、昭和6年度以降地方費、公共団体の事業として総工費換算5772万円、昭和9年度に第二次窮民救済事業として1330万円、昭和10年度に第三次窮民救済土木事業として800万円、昭和11年度は地方振興土木事業として600万円を投じ、道路・河川・漁港・上水道及下水道等土木事業などのインフラ整備を実施した。さらに昭和7年度以降からは総工費597万を投じて、河川・一二等道路・金山道路の整備、林道の改修、三等道路および地方河川の改修、漁港修築など追加で行い、貧困者対策の強化を行っている[8]。

日帝は国民の貧困対策をしっかり行ったが、李氏朝鮮はどうだったのか。指をくわえて見てるだけならまだ良くて、弱っている国民からさらに絞りっといたのではないだろうか。日本と朝鮮どちらの為政者がより「民」のことを考えて政治をしていたのか、冷静によーく見るべきである。


まとめ

・1930年に豊作飢饉が農家を襲った。
・日本政府は朝鮮米を日本内地に入れないように制限しようとしていた(収奪とは逆)。
・朝鮮は「今まで通り日本政府は朝鮮米を買え」と言っていた(収奪をしろ)。
・総督府は貧困者対策として様々なインフラ、土木工事を行った。


出典
[1]『朝鮮の工業と資源』,朝鮮工業協会,1937 p11
[2]同上 p13
[3]同上 p11
[4]帝国秘密探偵社 [編]『大衆人事録』[全国篇],帝国秘密探偵社[ほか],昭和12 p.32
[5]朝鮮功労者銘鑑刊行会 編『朝鮮功労者名鑑』,民衆時論社朝鮮功労者銘鑑刊行会,1936 p.428
[6]『朝鮮交通回顧録 : 別冊』終戦記録編,鮮交会,1976 p.16
[7]森田芳夫 著『朝鮮終戦の記録 : 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』,巌南堂書店,1964 p.838
[8]朝鮮総督府 編『朝鮮総督府施政年報』昭和11年度,朝鮮総督府,昭12至14 pp.371-372


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