今回は1930年以降の動きについて解説します。前回の1910年~1930年は「0の状態から色々整備し、全てが順調な時期」で、1930年以降は「気候や世界経済、国家統制など様々な影響を受けた時期」、この大まかなイメージを掴んでご覧ください。
農家を襲った厄災
ほぼ順調にいっていた朝鮮の稲作ですが、1930年(昭和5)に入ると豊作飢饉が朝鮮半島や内地を襲った。豊作飢饉とは豊作のため供給過剰になり価格が暴落、作れば作るほど赤字になり、豊作なのに農民の生活が苦しくなるという厄災である。農作物を売っても労賃にもならないと言われる程で農家は借金は膨らみ続けた。
「(朝鮮農家の)個人賃借も相当莫大なる額に上る見込みで、全鮮農家の70%が借金に悩まされて居るが、当局者の談によると一戸当り先ず200円見当の負債を背負っている模様である」
ちなみに日本の農家はどうだったのか。下記の新聞は29道府県60町村の調査を報じている。
「(日本の)一農家当り負債額は自作農最高で1059円、次は自小作農の987円、小作農403円で、平均一農家当りの負債は813円である」
金額だけを比べてどちらが酷いかとは一概に言えないが、日本農家は朝鮮農家の4倍、小作農だけで比べても倍の借金を背負っていた計算になる。この昭和農業恐慌ともいわれる北日本の大不況の原因は、豊作飢饉による米価格の暴落、冷害、三陸津波などの厄災が次々と襲った為である。農家は土地を売り、失業者は都市部に職を求め、欠食児が相次ぎ、女の子の身売りが行われた。
「収奪」と真逆?日朝の対立
昭和農業恐慌は外米、とりわけ朝鮮米の流入も大きな原因の一つであった。1927年(昭和2)、1930年(昭和5)の豊作で米の価格が大暴落しているにもかかわらず、朝鮮からの移出量は右肩上りに上昇している。日本農家の米の域外移出量は1200~1300万石に対して、朝鮮の移出量は900万石で、これは内地米移出量の70%以上に匹敵する規模であった[1]。そもそも日本農家は価格の下落を防ぐため、自然と生産制限を行っていた[2]。つまり商品価値を守るために自主的な努力をしていたところ、大量の朝鮮米が流入したわけである。この問題に対して日本政府は日本農家本位で保護政策を打ち出していくことになる。
もう「収奪どこいった」ってぐらい真逆の構図である(苦笑)
日本政府の対策
さて、日本政府は日本農家本位でこれを保護していくという方針であったが、朝鮮の反対もありなかなかスムーズにはいかなかった。
政府は満州粟の関税を引き上げて、朝鮮内で自家消費を増加させ内地への移出を減らし、米の価格を安定させようという狙っていた。しかしいくら米の価格が安いと言っても、粟よりは高いので粟を常食とする朝鮮人に大打撃を与え、更に農民の生活を圧迫する恐れがあるとして総督府が大反対をした。
とは言っても、総督府は政府の意向は完全に無視することは出来なかったようで、自主的な制限は相当やっているとアピールしていた。
日本政府は総督府の大反対にあいながらも6月には米の生産調整、価格の調整、朝鮮米の内地移出統制は絶対に断行しなければならないという空気になっていた。
9月に入ると政府はその具体的な方法について、いよいよ本腰を入れて案を練り始める。
いままでは日本も朝鮮も米を増産することが目的であった。先述したように日本農家は価格の安定が目的であったが、自主的な生産制限により、増え続ける人口の食料が確保できなかった。そこで日本政府は外地から米を移入して不足分を補った。日本内地の食糧問題に朝鮮米が寄与したことは事実である。しかし、豊作により価格が暴落し、それでも増え続ける米に対してはどうしようもない。日本政府としては朝鮮米の移出統制は断腸の思いであっただろう。
続けて大阪毎日新聞を引用します。
朝鮮米の増産計画は白紙に戻し米の代わりに綿花の栽培を奨励すると。食糧自給(食料の独立)は国防、国際関係を考えれば絶対に確保しなければならないが[3]、いくら国と言えども「天候」をコントロールすることは出来ない。
そして翌年の1933年(昭和8)年3月23日ついに従来の米穀法が廃止され、価格統制をより強力にした『米穀統制法』が成立する。
家族を総動員し「雨ニモマケズ、風ニモマケズ、夏ノ暑サニモマケズ」汗水たらして作り上げた米なのに、売り値がその労賃さえ償ってくれないようでは困るということだ。外地には外地の事情があるので、自主統制なんかほぼ無理に近い要求ではあるが、これはやらなければいけないという決意である。
この動きは当然、朝鮮においても一大関心事項であった。なんせ生活が懸かっているわけであるから、移出統制を「朝鮮米差別」と呼び、日本政府に強力に抗議した。
総督を引き出して日本政府に抗議さようともしていた。日本政府と朝鮮農家の板挟みにあった総督の心労をお察します^^;
そして遂に商工会議所、穀物連合会取引所連合会、鮮米擁護期成会など複数の団体が上京して直接抗議をする。
日本が朝鮮米の買い上げを強化することで落ち着いた。でもこれで油断すべきではない。朝鮮側は断固として戦うと.…。つまり今の韓国風に言い換えると「今回は日本に収奪を強化させることで落ち着いた。朝鮮側は日本が収奪するまで断固として戦う!」ってことか。
三井栄長の功績
朝鮮の視点から朝鮮米を守ることに見事成功した三井栄長(みついひでなが)だが、彼について少し触れておくべきだろう。
三井栄長は1879年(明治12)山梨県日野春村(現・北杜市)塚川で生まれた。東大農科大学(現・東大農学部)を卒業後、1910年(明治43)に総督府農務課に入って以来約20年間朝鮮米の増産、品質向上及び農村の建設に従事してきた[4]。当時朝鮮米は産額800万石に過ぎなかったが、三井氏の就任中に産額1800万石、移出800万石を達成した。1930年(昭和5)に総督府を依願退職後、不二興業に就職。引き続き朝鮮に残って朝鮮米の発展のために力を注ぐなど、その功績は「朝鮮米の三井か、三井の朝鮮米か」と称されるほどであった[5]。しかし終戦時に朝鮮農業会を解散した際の処理の責任を問われて、アメリカ軍により西大門刑務所に収監され[6]、懲役6カ月執行猶予2年の判決を受けた[7]。1952年(昭和27)73年の生涯に幕を閉じる。帰国後彼がどの様に過ごしたかまでは追いきれなかったが、平穏な余生であったことを願って止まない。
日本の貧困者対策
さて、本ブログ最初に引用した新聞記事には、総督府の貧困者対策についても書かれている。
この「窮民救済土木事業」は不況に苦しむ農民を救うため、昭和6年度以降地方費、公共団体の事業として総工費換算5772万円、昭和9年度に第二次窮民救済事業として1330万円、昭和10年度に第三次窮民救済土木事業として800万円、昭和11年度は地方振興土木事業として600万円を投じ、道路・河川・漁港・上水道及下水道等土木事業などのインフラ整備を実施した。さらに昭和7年度以降からは総工費597万を投じて、河川・一二等道路・金山道路の整備、林道の改修、三等道路および地方河川の改修、漁港修築など追加で行い、貧困者対策の強化を行っている[8]。
日帝は国民の貧困対策をしっかり行ったが、李氏朝鮮はどうだったのか。指をくわえて見てるだけならまだ良くて、弱っている国民からさらに絞りっといたのではないだろうか。日本と朝鮮どちらの為政者がより「民」のことを考えて政治をしていたのか、冷静によーく見るべきである。
まとめ
・1930年に豊作飢饉が農家を襲った。
・日本政府は朝鮮米を日本内地に入れないように制限しようとしていた(収奪とは逆)。
・朝鮮は「今まで通り日本政府は朝鮮米を買え」と言っていた(収奪をしろ)。
・総督府は貧困者対策として様々なインフラ、土木工事を行った。
出典
[1]『朝鮮の工業と資源』,朝鮮工業協会,1937 p11
[2]同上 p13
[3]同上 p11
[4]帝国秘密探偵社 [編]『大衆人事録』[全国篇],帝国秘密探偵社[ほか],昭和12 p.32
[5]朝鮮功労者銘鑑刊行会 編『朝鮮功労者名鑑』,民衆時論社朝鮮功労者銘鑑刊行会,1936 p.428
[6]『朝鮮交通回顧録 : 別冊』終戦記録編,鮮交会,1976 p.16
[7]森田芳夫 著『朝鮮終戦の記録 : 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』,巌南堂書店,1964 p.838
[8]朝鮮総督府 編『朝鮮総督府施政年報』昭和11年度,朝鮮総督府,昭12至14 pp.371-372