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メディウム・スペシフィシティの呪いを解く by J

「何か」という特定は、それ自体が「呪い」ともなり得る。何かを定義する行為は、世界に切れ目を入れ、全体の中の一部を隔て、理解したと錯覚させる。しかし、これは真実の本質ではなく、見る者の恣意的な区切りに過ぎない。モダニズムと結びついたメディウム・スペシフィシティによるアートのカテゴリ分けは、今日においてもアーティストを美術教育の既成概念に縛りつける「封印」として作用している。では現代の「日本画」が意味するものは何か。ロザリンド・E・クラウスが説くポストメディウムの観点からすれば、それは単なるカテゴリの名前にすぎない。

コンテンポラリーアートギャラリーapploitでの松下みどりの展覧会「彼此方の」は、この問いに対する実存的な挑戦である。京都芸術大学大学院で日本画を学ぶ彼女は、「日本画の素材は美しく、かっこいい」と語る。岩絵具、墨、和紙、膠といった伝統的な画材に、水、火、空気といった媒介物を交えることで、素材の持つ生命を引き出す。彼女の作品は、単に画材で何かを描くのではなく、素材同士の対話を通じてイメージを創造する。
 
展覧会場奥のグリッドに配置された《けむる》《けぶる》《たつ》《暮》《種》《沸》という6点の作品群は、その対話を如実に示す。作品は右上から順に《けむる》《けぶる》《たつ》《暮》《種》《沸》という6点で構成され、1辺18cmのスクエアの支持体にそれぞれ違った表情をもった絵画となっている。6つの作品の構成は色合いとして赤、青、グレーという三方向性のそれぞれの間に入り込み存在している。赤は火、青は水、グレーは地(石)を想起させるが、同サイズ、抽象的なイメージという特徴だけをとれば、全ては同じように制作されたもののようにも見えるが、よく観るとその制作のちがいは表面に特徴として表れていることに気がつく。それぞれの作品はそれぞれの持つイメージに即した技法を用いて創られているのだ。
 
グレーの要素の多い《けぶる》は部分、部分に岩絵具が割れた地面のようなテクスチャーを持つ。火山の火口を真上から覗いたような雰囲気となっている。赤の要素が多い《暮》は火に炙られた跡が砂壁のようなざらっとした表情を作り出している。黒い部分は墨であるが、赤い背景に引かれた黒は焦げたようにも見える。一方で青い《沸》は画面上をマーブリングのように水を多く含んだ絵の具と墨といった液体が動いた表情がそのままに定着されている。鑑賞者としては、描かれているもの、色、作品タイトルだけではなく、その表面のテクスチャーに火や水、地といった媒介物の特徴を感じ取ってしまう。
 
土、火、水、そして全ての作品に関わる空気を合わせた4つの素材は古代より、世界を構築する四元素とも呼ばれている。しかし、実際にはそれらは4つに分けられるものではなく、火と空気は「熱」を、空気と水は「湿」を、水と土は「冷」を、土と火は「乾」をといったように、お互いに関係し合う連続的な循環現象として捉えられていた。
 
松下の絵画は主観的に何かを「描いている」というよりもむしろ、水や火、空気といった媒介物も含めた素材同士の対話に松下が注意深く耳を傾け、素材と素材という世界の連続を再構築し、それらの発する声に反応するようにしていると言える。素材同士が作り出す現象を絵画に積極的に取り入れ、そのことは描く以上のことを画面上に生み出しているとも言える。
 
素材の声に耳を傾け、自然現象を絵画に取り込む松下の身振りは人間中心的な近代以降のわたしたち人類のあり方そのものにも疑問を投げかける現代思想の重要なポイントを押させている。この松下の身振りは、単なる日本画の画家のそれとはちがい、日本画とはなんであるのかと、絵画の中に引かれた境界線そのものを揺さぶる。メディアの境界、その連続性を問うこの姿勢こそが彼女の作品の最大の特徴であり、それは単に彼女の作品を日本画であるかどうかといった問いとはちがったレベルで語る必要性をわたしたちに突きつけてくる。
 
彼女の素材への探究は素材そのものの声を聞き、それを通じて新たな物語を紡ぎ出すことで、日本画というカテゴリに新しい生命を吹き込んでいる。その挑戦的な姿勢は、現代アートにおけるメディアの境界を揺さぶり、メディウム・スペシフィシティの呪いと、それが持つ意味を再考するよう挑戦している。この展覧会は、一つの回答ではなく、新たな問いの始まりを告げるものであり、それが松下の作り出す作品の意味であろうかと考える。

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