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[恋愛小説]1992年のクロスロード.../4.1990年代のつくば研究学園都市

あらすじ
主人公 福山雅弥は、8年交際している婚約者がいるが、仕事先で出会った、高峰由佳と激しい恋に落ちる。由佳にも婚約者がいた。二人は3日間激しく愛し合い、お互いに自分が必要としている相手だと確信する。その後、厳しい試練を乗り越えていく二人。


1990年代の、つくば研究学園都市の景観や雰囲気は、現在のそれとは異なり、1970年代に開発・創建された当時の雰囲気を持っていた。

雅弥が初めて、このつくば研究学園都市を訪問したのは、1976年だった。

高校の同級生が地元の国立大学ということもあり、何人かいたので、東京の工科大に行っていた雅弥は夏期休暇や春休みに、彼らの学生寮や学群の校舎へ出入りしていた。

建築学科で学んでいたので、当然学園都市に建っている建築や都市計画にも興味はあった。当時建築雑誌の表紙を飾った、筑波大 体育・芸術学群の校舎は一番先に見に行った。

それは鉄骨とガラスブロックのユニットで出来ていた。ある意味アバンギャルド的なデザインだった。その後に出来たRC造の校舎群とは一線を画すデザインだった。今は残念ながら、ガラスブロックの破損で、改修され当時の斬新さは失われている。

後日、それを設計した槇文彦設計事務所のチーフだった、小沢明氏から直接エピソードを聞いたことがあった。

開校まで時間が無く、工期的にRC造が出来ず、乾式のS造でガラスブロックを外壁にしたパネル工法にせざる得なかったとか。

やはり、開発当初は、それなりにいろいろ苦労があったことを知った。

TXが開通する以前のことで、最寄り駅は常磐線荒川沖か土浦駅だった。さらにバスで40分から60分掛かった。陸の孤島と言われる所以である。

東京駅八重洲口から高速バスも出ていた、2時間掛かったが乗り換えが無いので、多くの人はそれを使っていた。

元々、このつくば研究学園都市は、東大の都市計画の大御所の高山英華先生がマスタープランを作成、東西を貫く学園線と南北を結ぶ二つの東と西大通りという、基本構成がそれだ。

マスタープラン作成前に、海外研修をし、参考にしたのが、北欧の低層の住宅地計画だった。

特に、フィンランドのオタニエミやロミニエは、豊かな森林の中に低層の集合住宅群が広がる、豊かな住環境を持っていた。それを参考にしたので、1990年代のつくばの景観は、赤松林の中に埋もれるように立てられた低層の集合住宅群で、自然と建築の調和といえるものだった。

所謂、官舎は低層の1から3,4階で、高層でも10階までだった。

現在の民間のマンションが高層で乱立するというのは、本来のマスタープランには想定外であった。

単に経済性を追求した結果で、単にベットタウンに成り下がったと非難されたが、当然だろう。

雅弥の事務所は、JAXAの筑波宇宙センターに隣接するつくば研究支援センターの一室にあった。

だから時々JAXAからロケットや衛星を組み立てる、重たい振動音がした。

また通りの反対には都市公園の洞峰公園があり、昼休みには、その周回路を走った。

因みにそこにある新都市記念館には、初期のつくば研究学園都市のマスタープランの模型が壁面を飾っている。

雅弥が支援センター室長で赴任したときに、設計した規格型住宅は、その洞峰公園通りを西に500m先の戸建て住宅団地にある。

そもそも地元のディベロッパーから依頼される仕事が多いので、設計した住宅はつくば市内には60棟はある。

ちょうどこの1990年代はバブル前期であり、TX前とは言え、つくば市の宅地の価格は高騰していた。

担当した医学部教授の二ノ宮の宅地は当時200坪で、1億円と言うこともあった。

つくば研究学園都市の特殊性は、計画された街と言うだけでなく、そこの住民についても言えた。

多くの住民は大学関係者か国立研究所の研究者であり、つくばで石を投げればドクターに当たると言われた。

だから、雅弥が担当した施主も殆どが、博士だった。

だからと言って、建築の知識は無いが、一度説明すると、即座に理解し判断する点は、一般の施主とは大きく違っていた。
そいう点では、大きなトラブルになることが無い、ある意味優良な施主であると言える。
そんな環境の中で、雅弥と由佳が出会ったこのつくば研究学園都市は、東京という大都市でもなく、地方都市でも、田舎でも無い、特殊な環境だったとは、言える。


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