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「世間」について考えた

先日(2022年9月24日)、Ziba Platform主催のオンライン哲学カフェ「世間って何?」に参加しました。話し合う前に予め自分なりに見当をつけていたのですが、オンラインでいろいろ話を伺っているとまたよくわからなくなってしまいました。時間がかかりましたが、現時点での私の考えをまとめてみます。
 
実はこのテーマを知ったのは一ヶ月以上前だったので、せっかくだから予習しておこうとGoogle検索してみました。まず辞書的な意味を知ってそこから考えていこうと軽い気持ちで。ところが意外なことに、思っていたような「世の中」とか「社会」とかと似ても似つかない意味があっただけでなく、もともと日本語でなかったことに衝撃を受けました。ちなみにWikipediaには「世間とは、インド発祥の宗教における用語であり、(中略)移り変り、破壊を免れない迷いの世界という意味」とありました。
そのインド発祥の意味からもずれていることから、もしかすると「世間」という言葉は日本語にしかない概念なのかもしれません。わかりませんし確かめる気もないですが、疑念を持ちつつも、この「世間」という言葉について考えたいと思います。

「世間」の定義

現時点では、私は「世間」を次のように定義するのが妥当ではないかと思っています。
世間とは、不特定多数の人の意見や評判あるいは噂を内面化し、一個の人格とした存在のこと」。
少しわかりにくいので説明します。
 
多くの人から様々な意見や評判あるいは噂を聞きますよね。聞いたものを自分の中に内面化したのが「世間」ではないでしょうか。
例えば「あの客にメール打っておいて」と言われて了承したとします。すぐ打てばよいんですが他の業務に追われている。早く打たなきゃ。すると誰に言われたという主体は消え失せて、自分の中で「早く打て」と催促する存在が生じる。自分の中に内面化する。これが「世間」だと思います。
「誰が」という主語はなく、不特定多数の人をまるで一個の人格のように捉えて考えているのが「世間」だと考えます。

「世間」の更新

「世間」は「他人の意見を内面化した存在」のため、例えば人との交流を一週間なり一ヶ月なり絶ったとしても、自分の中で変わりなく存在し続けています。逆に久しぶりに交流すると、社会の情報が更新されるため、内面化している「世間」とずれが生じます。それが、芸能人の人気が変わっていたりいまの音楽の流行りをみたりしたとき「世間は変わっていっているなあ」と呟くのに通じると思います。

「多数の人」はあまり多くない

オンラインで「他人から世間知らずと言われる」という人がいました。大きなお世話だと思いますが、この「世間知らず」とは何でしょうか。
「世間」は「内面化した存在」ですので他人にはわかりません。ただ相手が内面に持っているであろう「世間」は推察できます。相手が内面化した存在がこと身内に限られているなと感じたとき「お前は世間知らずだな」というセリフになるのではないでしょうか。
 
「世間」の定義に「多数の人の意見や評判あるいは噂」としましたが、この「多数の人」はおそらく自分が思っているほど多くはないと思います。100人200人レベルではなくせいぜい10人程度、およそ5人程度が「多くの人」にあたるかなと思います。
考えてみてください、だいたい三名の知人が言っていた言葉(意見や評判あるいは噂)は「みんながそう言っている」と思ってしまうのではないでしょうか。「世間知らず」というのは人数ではなくバリエーション、家族や友人だけでなく社会人など様々な人と交流し内面化しているかどうかによるのではと思います。

自分にとって影響力のある人が主な「世間」

さらに「多数の人の内面化」は多数の意見を平均しているわけではないように思います。あのことについてはあの人の意見、そのことについてはその人の意見と取捨選択しているのではないでしょうか。
一般に、特に自分にとって最も影響力のある人が多くの意見を占めているように思います。小学生の頃は親の影響力が大きかったけれど、高校になると仲のよい友人の方が大きくなり、仕事を始めれば上司のいうことが一番影響するのではないでしょうか。
 
だからといってその「世間」に従うかどうかは別です。「世間」はいわば「内面化した他人」ですので、同意することもあれば対立することもあります。
何でも受け入れてくれる上司が「世間」の代表格になっていたら「世間のいうことなんて気にしなくてよいんじゃない」と思うかもしれません。でもあくまで「内面化した存在」ですので、その人のこれまでの人生によって「世間」をどう捉えるかは変わってくるでしょう。同じ上司でもプレッシャーを感じる人もいるかもしれませんし、自分の意思よりも「世間」の要求の方が優先する人もいるかと思います。

「世間」からの解放

オンラインで「地方から上京してきたが、世間という言葉を久しぶりに聞いた」という人がいました。なるほど、一般に地方から首都圏へ大学進学などを機に移住されることが多く、だから「地方は世間が煩わしい」「都会は世間から解放的」と思う人が多いかもしれません。
でも私は違うんじゃないかと思っています。なぜなら私は、同じく移住して世間から解放された人のひとりですが、大学進学時「地方→首都圏」ではなく「首都圏→地方」に移り住んだのです。つまり地方か首都圏かは関係なく、地域などと関わりをもたざるを得ない環境に置かれると、世間を認識するのではないでしょうか。
もっとも、最近は隣人とあまり関わらなくてよい傾向になっていると思います。もし何度も指摘されたり怒られたりする環境になくて(なくなって)、内面化する必要がなければ「世間」は生じない、あるいは気にならない存在になるのではないかと思います。
 
「世間」を認識するメカニズムとして「躾(しつけ)」を考えてみましょう。
「箸を揃えなさい」と言われた子どもは、指摘されたら揃えますが自分ではなかなか揃えることができません。しばらく繰り返すと「箸を揃えなさい」という子どもの中の人が生じ、自分で揃えるようになる。子どもの中の、親でも先生でもない人=「世間」に要求され、それに従っているのです。それが習慣化したのが「躾」だと思います。
でも、一人暮らしを始めていちいち箸を揃えるのは面倒になった。箸を揃えなくても何も言われなくなった。結果箸を揃えなくなった。めでたく「世間」からの解放、となるのではないしょうか。

「世間」からの排除

では「世間に排除される」または「世間に爪弾きにされる」「村八分にされる」とはどういうことでしょうか。
「世間」は親や上司など影響力のある人でしたが、自分の意思と「世間」の要求とが対等か、あるいは受け入れる必要がなければ、結論はどちらでもよくなります。問題は「自分の意思」よりも「世間の要求」の方が優先される場合です。「自分にとって影響力のある人」の要求ですので、自分の意思とは違うとわかっていながら「世間の要求」に従わなければいけない。それが「世間」からのプレッシャーとなります。(もっとも、「世間」の要求が自分の意思と同じなら問題ありませんが。)
厄介なことに、「世間」には「誰が」という主語がないため、対話する(話し合う、交渉する)ことができません。もちろん「世間」のモトとなる人(内面化する前の現実にいる人)は存在し、対話することもできるのですが、その人と離れて内面化して「世間」となり、その人が当人の中で繰り返し要求することで重荷に感じてしまっていると思います。
「世間の要求」に従わないとおそらく不満(不愉快)に感じる人がいる。それが誰かはわからない。地域の人の場合、もしかすると隣の人が明日から態度を変えるかもしれない。ひどくなると地域の人たちから疎遠にされることになりかねない。いわゆる「爪弾き」や「村八分」です。「自分の意思」よりも「世間の要求」の方が優先している以上爪弾きなどは避けたい、と怯えるために、自分の意思に反して「世間」に従う形で行動することになるのではないかと思います。

まとめと雑感

以上、「世間」についてまとめます。
・「世間」とは、不特定多数の人の意見や評判あるいは噂を内面化し、一個の人格とした存在のこと
・「世間」は内面化した存在のため、現実の社会の情報と更新する必要がある
・「世間」を構成する「多数の人」はあまり多くない
・自分にとって影響力のある人が主な「世間」
・「世間」に従うかどうかはその人や状況による
・「自分の意思」よりも「世間の要求」の方が優先される場合、「世間」が誰かわからないため対話することができず、自分の意思に反して「世間」に従わざるを得なくなり、結果重荷に感じてしまう
 
「影響力のある人」の何気ない言葉は、おそらく冗談交じりかごく少ないのに、内面化した「世間」によって増幅されてしまう。「地域の噂」も嫌ですが、それよりも「ネットの噂」の方が、誰が思っているのかよりわからない分もしかすると厄介ではないでしょうか。
今や社会問題となっている鬱や精神疾患も、今回考えた「世間」が引き起こしているかもしれません。また、最近はあまり隣人と関わらなくてよい傾向になっていると書きましたが、いざ地域などと関わらなくてはいけなくなると、免疫がないだけにかえって深刻になるのかもしれません。
そう考えると、今だからこそ「世間」をもっと注目すべきかもしれません。
意外に難しかった「世間」、いつかまた改めて考えたいと思います。

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