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「石岡瑛子 デザインはサバイブできるか」ビジョンではないメッセージ

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「石岡瑛子 デザインはサバイブできるか」を見てきた。出鼻から感じたのは、各ビジュアルの顔圧の強さだった。思えば、顔(表情)は一番の人間の表現手段であって、それは原始的なものでもある。それを踏まえて、「あゝ原点」というキャッチコピーをつけた・・・のではもちろんないだろうが、少なくともふつふつとした熱量だけは確かに見るもの皆に届かせる気がした。ただ、目(≒表情)は口ほどにものを言うといわれるにせよ、ビジュアルだけを見ただけでは-またセットとなるキャッチコピーを読んでもなお-釈然としなさはある。すんなりとは石岡の作品のメッセージは理解できないのだ。いや、そもそも「理解」されようともしていないような風でさえある。それこそ、考えるな感じろとでも言いたげな佇まいだ。

石岡瑛子は、デザインは社会へのメッセージであるべきだというようなことを表明していたというが、その「メッセージ」なるものはいま私たちが想像するメッセージとは少し異なるのかもしれない。昨今よく見られるメッセージ広告(企業広告や意見広告)は、SDGs系や社会問題に関するテーマがほとんどではないだろうか。これらは、理想像=ビジョンを語る、未来方向への訴えだ。

対して石岡の作品は、未来よりも過去(というより理想の前提条件となるもの)に遡行していく印象を持った。例えば、石岡の反戦と解放をテーマにした《POWER NOW》という作品。

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この黒い物体は、「>怒りの象徴ともいうべき握り拳のような肉体のフォルム」という。生身の肉体のみで、反戦を訴えており、この肉体は「>握り拳」とされるが、種のようにも見える。「生」未満の種子という根源的なものを描くことで、それを脅かす戦争を批判をしたという解釈もできる。

メッセージは指針的なものであるため多かれ少なかれ未来的なものであるが、この作品から受ける印象は根源的だ。現代のメッセージ広告がビジョンつまり「光が照らす先のもの」に価値を置くとすれば、石岡はその「光源」の方が重要であると言っているかのようだ。

現代の広告は、その種類がメッセージ広告であるにせよないにせよ、分かりやすく設計されている。分かりやすくしなければ、おそらく社内の稟議で通らないのだろう。分かりにくいものなんて提案しようものなら「そんな難解なものでは、消費者は分からないし動いてくれない」とお偉い方に一刀両断されてしまう。金をかけるからには、それなりの費用対効果を求められるのも、おおらかな昭和時代よりも今の方がシビアであろう。

もっとも、分かりやすくつくることが間違っているとは微塵も思わないが、それによって引き起こされるのは、ビジュアル、キャッチコピーなどの要素がメッセージの下部構造に置かれてしまうということだ。石岡の作品は、尖ってみえるし、容易には理解しがたい。それは、単にビジュアルが突飛だとかの話ではなく、メッセージとビジュアル、コピーが同じレベル感に存在しているからではないか。

昨今の広告制作においては、メッセージという最上位概念の支配下に、ビジュアルやキャッチコピーがきやすい。例えば、ビジュアルによって見る人のアテンションを引き、キャッチコピーを読ませることで(説明を加えることで)、腑に落とさせたり、あるいは、一見すると「?」となってしまうキャッチコピーを置き、それを修飾する手立てとしてビジュアルを用いたりなどし、両者が互いに意味を補い合うことでひとつのメッセージを構成する。これはメッセージの意味内容を非常に明快にしてくれる。しかし、ビジュアルとコピーは補完関係にあるからこそ、両者は単一で自立できるほどの強度を持ちづらい。石岡の作品が強いのは、ビジュアルやコピーなどが独立しており=(上部)メッセージ/(下部)ビジュアル・コピーという階層がなく、同一線上に三者が並んでいるからだ。それゆえ、分かりにくさはあるが、メッセージがそのままイコールビジュアルとなるような強度がある。

思えば、最初に書いた顔圧がすごいのも、元(根源)を突き詰めていけば結局は人間の身体に行き着くという現れなんだろう(生身の人間をメインに据えたビジュアルが多く感じたのもそのためか)。《POWER NOW》にしても、反戦がいかに大事であるかの理由を遡れば結局人の身体にいきつく。ロジックは原理上、無限に理由を求めることができるが、身体(命)が大事であることに理由はいらない。そうした根源までつきつめたところに、石岡瑛子はいる。

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