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「早春」を見て・・・|小津安二郎はフェミニストなのか?

浮気相手である金魚を、男たちが取り囲んで非難する様子は見ていて二重に痛々しい。金魚(このあだ名の由来もとんでもないのだが)にとってもはやいじめに近く、状況的にも男ばかりの部屋で紅一点が散々な言われようをされるのはもう異様である。そういう意味で痛く、そしてそんな雑言を我が物顔で言える男たちのイタさもある。男たちが「セルフエグザミネーション」とこれ見よがしに英語を用いて反省が足りないと金魚を非難していたが、男尊女卑の社会でもとから下駄を履かされた状態の男が、さらにマウントを取るような言葉遣いは、それこそ自らを省みる姿勢のなさにバカバカしさを覚える。


ただ、金魚が部屋から出て行った後に、言い過ぎを男たちが反省するシーンがあったことで、少しだけ胸をなでおろせた。当時の時代背景や価値観がそうであったのだからとそのシーンを野放しにしておくことはせず、ちゃんと(?)小津は男同士の内輪ノリに始まる女性蔑視を批判している、と感じたのだ。そしてこのシーンは、観る者に対し彼女への同情を誘うような役割も果たしている。不倫は不埒な行為に違いないが、それを分かっていながらも自己責任・判断でそれを遂行せんとする金魚は、ある意味自立したひとりの女性像として映らないだろうか。7対1の状況それも女自分ひとりという状況で、言葉の自動機械のように社会通念や多数派の論理という鈍器でなぶってくる男たちに対し、立ち向かうだけでも賞賛に値するし、他者の言うことより自分の本心にしたがう自律した姿勢は、あの男たちという比較対象がいるぶんさらに鮮烈に映る。
※もちろん、主人公にすがる金魚の様子が結局他者(男)依存であるとも捉えられるが、少なくとも金魚がその時点で男と一緒になることが自らの幸せなんだと思い、主人公の妻の待つ家を訪ねることさえしてしまうのはちゃんと自己決定しているのだと思えてしまうのである。

こうした一連の金魚の描き方をみたことで、家族ばかり描く小津は保守的に見えて、実はフェミニストなのか?という考えが頭をよぎった。こうなると、そういう視点でしかみれなくなってしまうのだが、例えば主人公を送り出すために狭い部屋に大勢集まって蛍の光を歌うシーンがある。車座の中央で主人公と金魚が真正面で向き合うのだが、居心地が悪そうに主人公はビールの入ったコップを傾け伏し目がちだが、金魚はまっすぐ主人公のほうをみて、涙を浮かべる。涙を流してはいるが、それは弱さというより別れを超克するあるいは飲み込む決意としての表れにみえた。いたたまれずもじもじする主人公と比して、金魚の方が圧倒的に強い

やっぱり小津は女性の凜とした強さを描いている!といよいよその考えが「?」から「!」へと変わろうとした矢先、最後のシーンでそれを再度振り出しに戻させるような展開へ。岡山へひとり転勤した主人公のもとに、妻が戻ってくるのだ。自分なりに想像できる安易なフェミニズム的展開は、妻が主人公に見事な復讐を遂げるとか、男に依存しない経済的に自立した生活(妻の母のような自営業?)を行うとか、妻と金魚がシスターフッド的な関係になるとかを想定してしまうばかりに、なんだ、結局主人公のもとに帰ってくるのかと少し拍子抜けしてしまったのである。しかも、戻ってきたのは、小野寺(笠智衆)に「すぐに三石へいけ。間違いはお互いに努力して小さなうちに片付けろ」と手紙をもらったからでもある。もっとも主人公も妻へ手紙を送っていたようだから、それも功を奏したのだろうが、そちらの方で何が書かれていたのかは映画では全く触れられない。つまりは、当事者である夫妻間で行われるやりとりより、結婚の仲人のように第3者の介入によることの方が関係改善に寄与すると言いたいかのようで、それは結婚(仲人)を多く描く小津の一貫性でもある。個人よりも共同体の重要性を再認識させるようなエンディングは、結局小津の「保守」的な側面もやはり覗かせるのである。まあ考えてみれば、小津が、現代のフェミニズム的なストーリーを展開させるとは考えにくい。小津にフェミニズム的な側面も見出せなくはないが、女性の辛苦や男女の非対称性を描いているというよりは、個人的にはホモソーシャル的なノリと距離をとることの方に重点を置いていたように見える。小津映画には、どうしようもない男がたくさん登場する。それをまるで冷徹なカメラのように写し出す存在として、おそらく女性なり今回の笠智衆のような第三者的仲人が位置している。

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