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ボトルメール

ミスタードーナツのドーナツは世のドーナツの中ではかなり安い。
そう気づいてからミスタードーナツによく行くようになった。

店頭にフォトスポットを設けているような一過性のドーナツ屋だったらオールドファッションは300円、ポンデリングはそのフワフワ感で強気に450円までやるんじゃなかろうか。
故に一過性のものになるんだぞと無いドーナツ屋に苦言を呈しながら、チョコファッションとホットコーヒーを持って席に着く。

俺の左側に少し大人びて見える男子小学生が座る。澤村伊智の単行本と一枚毎にパッケージングされたたくさんのデュエルマスターズのカードを持っている。窓の外にはゲオが見える。これが推理。遅れてドーナツを持ってお母さん。ドーナツを食べながら二人でカードを開封していく。

店内には他に何組か勉強をしている学生がいる。
俺の斜向かい、向かい合って座っている高校生カップル。勉強している女の顎を男が撫でている。男の手はズルズルと女の首元、胸元へと這い、そこで女に払われる。

ここでは外の生活が透けて見えるように思えて、なんだか少し緊張してみる。
すぐに忘れてしまう緊張感が俺の姿勢を少しだけ正す。

トイレに行ったあと手を洗う理由、第2位は自分を安心させるためだ。

手をキレイにするために洗面台に立つのだけど、蛇口から水が流れ出すと他のことを考えてしまう。

俺がこうやって手を洗うように、きっとみんなも手を洗う、
俺はトイレの外に不潔を持ち出さないように努めているんだから、みんなもそうだよな、とか。
俺がお前らを信用するように、お前らも俺は信用してくれ、とまで。

そう思いつつも、他人の行動や思考を強要したい訳じゃなくて、自分を安心させるために思っていることに過ぎない。
手を洗わずにトイレから去る人を見ても、見なかったフリをするだけで、そういった人たちからピントをズラすため、無意識に取っていた手段なのかもしれないし、
ポジティブに思うなら、仲間を作りたいのかもしれない。
人にやさしくあろうとするのは無意識のうちに人にやさしくされたいと願っているからだみたいなことで、
トイレで手を洗うことは人にやさしくすることではないけど。

映画館で『首』を観て以来、全く観たことのなかった北野武監督作品を観ている。
こんなに集中的に映画を観るのは一気にMCUを観たとき以来か。
寺島進がロバート・ダウニー・Jrで、大杉漣がクリス・エヴァンス、ヤクザのアベンジャーズ。
今まで積極的にビートたけしに触れてこなかったことを惜しく思う日々で、自分がこの世代に生まれていたらたけし信者になってただろうなと思うほど、どれもが素晴らしい。

(映画を撮るのは)自分の履歴書を書き直してるみたいな気がするね、最近ね
やっぱり本当は映画の中の自分っていうのが意外に本物っていうか、「俺こんだけ暗いんだよ」っていうのがあるかなと
だからヤバイヤバイと思って、映画変えなきゃって
映画を変えるってことは自分も変わるってことで
もうちょっと明るいの撮りたいとか、生きなきゃなというのは、実は自分のことなんだけどね

北野武(『菊次郎の夏』メイキング映像)  

たけしが映画を撮るという行為について話していたことが、最近考えていたことに重なって、心に残っている。

Twitterを見るのを本当はやめたい。
見てるだけでこんなにズンズン気持ちが沈んでいくのに情報インフラになっているからやめられない。
ここは終わってんな〜とみんな思いながら使っている謎のSNS。

とは言いつつも、完全に終わってしまったわけではない!とも思っていて、思っていたいからね、
俺が世界一のハッピーボーイだと思っているママタルトひわちゃんですら、「Twitterで何かを表現することに限界を感じている。諦めている。Twitterは限界のSNS。」という話をしていて、俺の心のセーフティネットすら…と思った。
そんな中、ミュージックシャンプーは最悪のドブ川に流れる一輪の蓮華の花のように見える。


社会とTwitterは同じではないと頭ではわかってはいるのに、頭の中にいる仙水忍と夏油傑が「な?」と語りかけてくる。
Twitterぐらいでしか公開してないnoteなんだけどねコレ

映画『PERFECT DAYS』のことをずっと考えている。

透明にされている人の在る暮らしを撮す、ことに対してその暮らしが良いとか悪いとか語られることがわからない。
ただ、タイトルはパーフェクトなデイズであり、コピーは『こんなふうに生きていけたなら』であり、そういった見方は扇動されていると思う。
だとしたら、そこに在る暮らしを撮す、というそもそもの前提が間違っていて、この映画は何がしたいんだろうと思ってしまう。

いわゆる「丁寧な暮らし」を賛美する世間の流れにずっと違和感があったのだけれど、それは他人の生活に優劣をつけることへの嫌悪感なのだろう。
一方で、「丁寧な暮らし」をすることはある種快楽的であり、生きる目的にもなりえる手段であることは確か。

『PERFECT DAYS』が「丁寧な暮らし」賛美的なパッケージングをされていることの意味を考え続けるので、またあれば言う。

こんな文をダラダラと書いたって意味は無い。
意味は無い。

自分の輪郭を線でなぞるように、文を繋げるだけ。
たまにこっそりと、本来の線からはみ出して新しい自分の輪郭を描いてみる。
祈るようにダラダラ書いた文。
祈るように流す。

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