タナトフォビア(死恐怖症)の原因

おそらく皆が知りたがっているであろう「何故、タナトフォビアが起きるのか?」について話をします。

答えは「存在の認識」です。

実は人は普段、「自分の存在」というのをあまり自覚していないのです。
これは、自分をどれだけ「当事者」として認識できるか、そしてそれをどれだけ濃く実感できるか、です。
テレビ、映画、試合を眺める、といった「観客の視点」で物事を見ていると、この実感は薄くなります。
人は通常、「第三者」の視点で物事を見ており「自分の存在」を認識できていないのです。

自分が今この場に存在しているという事実、実在を認識できるかどうかが鍵となります。
この宇宙に「自分が実在している」と認識した時、様々な気付きが始まります。
それに該当する反応として「希死念慮(きしねんりょ)」「タナトフォビア(死恐怖症)」「アペイロフォビア(無限恐怖症)」などがあります。


① 「今現在」、自分がここに存在しているという"重み"は「希死念慮(きしねんりょ)」をもたらす。

まず基本的に「自分が実在している」という実感は強烈な「恐怖」を呼び起こします。この自覚は一般的には薄い人が多いのですが、濃い自覚を持つと大変なショックを受けます。

日常的に自分の存在を認識してしまう人は、その「剥きだしの心」が自分の存在に耐えられなくなります。

「この世界に自分が実在してしまっている」という重さに精神が耐えられない場合、逃げようとします。
ここで「死んだら無」という認識を持っていると、「死」が救いに見えてきます。自分の存在の重みに耐えられないのですから消えてしまえる死は救いだと思えるのです。

ただしその根幹にあるのはその重さからの逃避なので「死にたい」よりも根本は「逃げたい」にあります。


この「自分の存在」の実感(リアリティ)について例をあげると、「夢の中」では薄れる場合が多いです。

夢の中では自分の実在という実感が弱く、自分は客観的に見ている存在、自分は超越的な存在、という立ち位置にいるパターンが多くなります。(例外はあります)

そして夢から覚めた時、現実との実感の差、濃さ、ギャップを強く認識することになります。

だから希死念慮を持つ人にとっては「眠り続けたい」「まどろみの中に居たい」というのが願望となる人も居るのではないかと思います。超越者として自分が存在することは良しとしているので、生命欲が無いわけではないのです。だから死の願望だけを持ち自殺には至らず、いざ死のうとすると「タナトフォビア(死恐怖症)」にも転換する余地があります。


これら「希死念慮」を持つ人に対して「心が弱い」という評価が一般的に見られますが、普通の人はその「自分の存在」の自覚を体験できていないだけの場合がほとんどです。

その実感を認識した時、多くの人が凄まじい恐怖、ショックを受けるでしょう。馬鹿にするものではありません。精神的弱者、人間的弱者として社会的に扱う姿勢が更に追い打ちをかけているのも問題です。

何も見えていない人よりも遥かに真実を見ていると思います。



② 「未来」にも自分が存在しているという"重み"は「アペイロフォビア」「タナトフォビア」をもたらす。

現在の重みに耐えられない場合、思考停止をもたらしますが、その先の先まで考えるに至る者が居ます。

この差は「逃避」の姿勢で変わるでしょう。「逃げたい」という基本姿勢の人は希死念慮で終わりますが、「まず逃げる」ではなく「よく観察しよう」という気質の人は先へ進みやすいです。

「自分の存在」を受け入れている場合、その未来に対する自覚が次の段階をもたらします。

「自分とはこの世界を客観的に見ている超越者ではなく、この宇宙に『実在』しているものだった」と自覚、認識できた時、自分の存在の重さと同時に未来の運命に気づき、恐怖します。


パターン(1)「アペイロフォビア(無限恐怖症)」

宇宙や未来に思いを馳せると「存在」が永遠に続く"重さ”にとてつもないリアリティを実感します。

これは希死念慮の時の「自分の存在の重さに耐えられない」という重圧の派生パターンでもあり、未来の先の先まで「実在の重み」が積み重なって超重圧となって壮絶な恐怖に襲われる「アペイロフォビア(無限恐怖症)」となります。

希死念慮の人は「自分の存在」の理解は漠然としており"重圧"だけを感じ、その理解が弱い場合が多いですが、アペイロフォビアの人ははっきりと理解できるはずです。

『「自分の存在」の重み』、この一言で通じるのではないでしょうか。


パターン(2)「タナトフォビア(死恐怖症)」

未来に自分の存在の「消滅」があることに気付きます。

それまで自分の実在を自覚せず、自分とは客観的に世界を見ている存在であり、「超越者」の様に見ていると自覚していたのが「当事者」である、自分がそこに「実在」していると気付いた瞬間、自分は消滅する運命にあるものだったと認識して凄まじい恐怖を経験して「タナトフォビア(死恐怖症)」になります。

タナトフォビアは死恐怖症とありますが本質は死が怖いのではなく、「自分の存在」が「消滅」するのが怖いだけです。これは「自分の存在」にすら気付いていない人には理解できないでしょう。



これら「希死念慮」「タナトフォビア」「アペイロフォビア」という三つを同時に持つ者も成り立ちます。その全てが「この世界、宇宙に対する自分の存在」という重さを鍵としています。普段は霞にように認識を鈍らせて知覚が困難に陥るためそれぞれを認識出来たりできなかったりを繰り返します。

ここでいう「自分の存在の自覚」とは、人間社会に対してではありません。宇宙に対してです。

「この社会に一人の人間として自分はいる。」というような人間社会の中の自分を見ているようでは「存在の認識」には至りません。

人間社会の枠を破り、この地球に、この自然界に、この世界に、この宇宙に、存在してしまっているのが「自分」なんだ。と、自覚します。

故に、人間社会に依存している人、社会の中での立ち位置に意識が向く者ほど、「自分の存在」は自覚しにくいでしょう。

そういった宇宙的、自然的な自分の立ち位置を自覚させるような情報を目にしたことがきっかけでタナトフォビアになる人が多いはずです。


これらは哲学的で難しい話になっていますがタナトフォビアは「実体験」がありますので理解しやすいはずです。
「自分の存在」を自覚したことのない人は体験が無いため、理解は困難です。
「タナトフォビアの人にしかタナトフォビアは理解できない」とよく言われる背景はこれが大きいでしょう。

普段、人は、カスミのように認識を覆って覆って自覚できないほどのまどろみのような意識でこの世を見ています。超越者、傍観者のような視点で世界を見ているのでタナトの主張は認識すら出来ないでしょう。


瞑想の熟達者はその霞みを払うクリアな視点を持ちます。
仏教などにも「ありのままに見る」という見方を「ものの正しい見方」としていますし、「この宇宙に自分が存在している」これを前提とするとものの考え方は大きく変わるでしょう。

しかし普通はまともに自分を認識することすらできないので言葉により理解するのは困難です。目の見えない人に「色」の実感を伝えることは出来ないでしょう。

タナトフォビアはそれを体験として「実感」しているので比較的に理解の道があるため、ここに書き残します。



※ 一つ注意してほしいことがあります。それは哲学的解決の危うさです。
哲学的に突き詰めて行けばこの自覚を消すことは出来ます。つまり、恐怖しなくなる、あるいは存在の重さを克服することは可能です。ですがそれは何も解決していません。
哲学的に突き詰めた先には大きな感動や衝撃を体験できますが、それらは入り口にしかすぎません。

最重要なのは「物理的解決」です。
納得や理解だけで終わり、無為に時を過ごす人には等しく死が待っているだけです。満足したら終わりなのです。

私の主張は「タナトフォビアの四つの検証」に書いているのでここでは詳細は省きます。


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