フィギュアなあなた

私がいて、それでも私ではないことが幸福だと。そう感じる作品であった。

「フィギュアなあなた」を観ての感想を書きたいと思う。注意書きを先にしてはつまらないので、ネタバレ有りとだけ申しておく。

この作品は、私にとって恐怖であった。厳密にいうとすこし冷や汗かく、といった程度あるが恐ろしさに違いはなかった。

本作品は「ただエロいだけ」「不可解だ」などの評価を得ている。残念ながら私もそう感じるのは確かである。しかしながら、そうだと断定するのはいささか早計ではあるまいか。

まずは冒頭部分についてであるが、主人公の内山が会社の部長に叱られている場面である。この部分において内山は「妄想」にて部長に言い返し、やりこめるということをしている。しかしながらあくまで妄想であり、現実ではいてこまされている。

次にガラスバーでの出来事であるが、ここでも「妄想シーン」の挿入がある。この場面では内山は部長の時のようにはハッキリと現実との区別がつけられている、とは言えないような描写である。

さらに「生きたマネキン」として描かれていた「心音」とのシーンでは内山が酔っ払っている時に限り内山が心音の声を聞くことができている。

しかして最終部分にて、酔っ払っていないのに内山が「生きた」心音と相対している。ただ、ここではおそらく内山が交通事故にあっているものと考えられる。

そして最後の最後のシーンで内山の部屋に心音ではないマネキンが映し出され、終幕を迎える。

これらの点より、心音は内山の想像上でしか「生きていなかった」のではないかと考えられるのではないだろうか。


こうした点から私は、やはり人は誰かに救われていなければ、自身で救うことしかできないのだと改めて感じる結果となった。要は対象の差でしかないということである。それがペットだろうが観葉植物だろうが愛人だろうが恋人だろうが…はたまた「フィギュア」であろうが、愛することで救われているのではないだろうか。

本来であれば、という表現は間違っていると思うが「人」以外の対象に愛を注ぐ場合、自身の庇護の元でしか生きられないということが条件になってくるように思う。そう考えれば「フィギュア」もまたそうであり例外ではない。むしろ完璧であり完全であり、物も言わず隷属するある種「生き物」であるかもしれないのだ。

内山の人間性は、かなり普遍的であるように感じる。少なくとも私に限っての話ではあるが、脳内で偉そうなやつをコテンパンにするだとかはある話なのだ。また現実世界で異性との関係がうまくいかず、脳内でその身体を自由にするなどはない話ではないだろう。もちろん同性でも構わない。そういった中で、誰にも認められず孤独に生きていた人間がなぜ完璧で完全な「フィギュア」に愛を注がず人間のように扱う可能性を否定できようか。

ラストシーンはどうしてもバッドエンドのようである。たしかに無意味に感じるローアングルや、陰毛を愛でるシーンなどを不快に感じる人々もいるであろう。しかしながら、それらが救いを求める一人間の妄想であるのならば。あるいは欲しいままに姿を妄想し得るのではないだろうか。「フィギュア」といえど常に全裸の状態で自室に据え置いている状態で、果たしてむしろ常識的に服を着ているような場面を、内山は妄想しただろうか。

もちろん、多くの方々が指摘するように「ただエロいだけで不可解な作品」であるのかもしれない。けれど私にとってそんなことはどうでも良いのだ。

私にとって重要なのは、「では、それ以外に解釈のしようはないのか」ということである。本当はどのような意図で描かれたのかなど、私が知ることはどうせできない。ならば、意味のないと言われている作品を「意味あるように」解釈することができれば、どれほど楽しいだろうか。ただ、それだけである。


このように、くだらないノートを誰が見るかと言われれば誰も見ないというのが関の山であるとは思うが、一応最後に注意書きだけしておく。

私は現在酔っている状態であるし文章も書き直しなどはせず思いつくままに書いているため、乱文になっている可能性は非常に高い。しかし直す気もない。どうせ誰も読まないのである。

そしてこの作品において、私の解釈が一番妥当である、などとは微塵にも思っていない。

これも私の妄想なのだ。

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