ぺトリコールの街〜ベトナム滞在記〜・前編
大学の4年間、私は関西の大学に通っていた。
大学生。
大人としての自覚の芽生え(実際のところそう思っているだけでまったくガキンチョのままである、と社会人になった今振り返ってみるとよく分かる)(じゃあ今は大人なのかと言われるとそれも違いますガキンチョです)、
親元を離れ初めての一人暮らし、出来るバイトの種類だって増える、とにかくまだ何も恐れない無敵時間のようなものだったと今になって思う。
だからこそ、社会人となりあの頃より自由が効かなくなった今、あーしとけばこーしとけばといった後悔が次々に浮かぶ。
大学2回生(関西では〇年生のことをこう言う)になった私は、その頃留学生のサポーターをしていた。活動内容は日本へやってきた各国の留学生と共に一緒に授業受けたりといったことが主である。彼らは何にでも興味を持ち知的探究心が強くあれやこれやと質問が飛んできたことを覚えている。そして私も彼らに学ばせてもらったことは大いにある。そしてありがたいことに社会人になった現在もその交流は続き、卒業後も何度か遊んだこともある。素直に嬉しい。
さて、ちょうど20歳となった月、私は漠然としていた。
漠然としていたと言う言葉そのものが漠然としているのだが漠然としていたものは漠然としていたのだから仕方がない。誰だってそういう時期はあると思っている。
ただ漠然と「何かしたい」と思っていた。趣味や将来に向けてのとかそういうのではない。「何か」と言ったら「何か」なのだ。
ありがたいことに不自由なく大学生活を送り、単位も特に問題もなく。毎日が楽しかったがどこかしら焦りがあった。おそらく「大学生のうちに何かしなければ」という焦りだったと思う。
そんな折、留学生サポーターの担当者をしていた先生から声がかかった。
「秋休みを利用してベトナムで先生してみない?」と。
ベトナム。
何も知らない。
あ、フォーがあるね。
でもそれだけ。
アンコールワットってベトナムだっけ?(ちがいます)
そのレベルである。
当然最初に浮かんだのは「できるわけがない」という不安だった。でも強い興味もあった。とりあえず話を聞いてみようと思った。
以下、ざっくりとした概要である。
・場所はホーチミン。
・期間は二週間。単位も付くとのこと。
・現地の人が通う日本語学校の先生をしてほしいとのこと(学校といっても様々な年代の方が集まる勉強会みたいなものらしい)。
・宿泊はホテル暮らし。
・言語については、公用語はベトナム語。ただし親日国家であることから日本語を話せる人は多い。英語の方が通じにくいらしい。
・同じく期間限定先生候補者の人も数名同行して現地でバラける。
簡単にだがこんな感じである。
ちなみに行き帰りの交通費と宿泊費は負担してくれるが他は自費である。いやその二点を負担してくれるだけで本当にありがたい。費用は一番ネックだからね。何においても。特に20歳ペーペーの大学生からすると特にね。
非常に好条件である。じゃあ行かない選択肢がない。
そうして私はバイトを増やした。お金はあるに越したことはない
ベトナムはバイクが主な移動手段。お店だってお昼寝だって全部バイクの上で行う。優秀な子。
・・・
季節は秋真っ只中。あっという間に10月末。
気づけば当日である。
関西国際空港に降り立った私は、普段めったに利用しない国際線の空気に圧倒され――るということはなく、ただただ今日から始まる未知の二週間に思いを馳せていた。
登場前、親戚や友人からの激励のLINEが大量に並んでいた。
行ってきます。何か学んで帰ります。きっと学んで帰ります。海外用のWiFiは借りたので連絡はつくけど大変電波悪いのでたびたび連絡つきにくくなると思います。
ここからの移動は割愛する。メインはベトナムでの二週間だから。フライトの様子を簡単に記すと、狭くて暑くて後天性激弱胃腸をお持ちの私は機内食で腹を下した――――
午前中に出発し、20時頃にホテルに到着した。今日までは担当者の方も他の大学生もいたけど明日からはひとり。頑張ろうと意気込むも相変わらず不調を訴える私の激弱胃腸からはあまりよろしくない音が鳴っていた。窓からはモスクのような、日本ではお目にかかれない建物がビカビカに輝いていた。そして絶賛道路工事中。真夜中にも関わらず工事の音が響いていたが疲れ切っていた私は明日の準備を済ませるとすやすやと眠りについたのであった。
・・・
初日〜現在も語られる伝説の自転車盗難事件〜
初日である。日本語学校はホテルから徒歩20分ほどの位置にあった。真っ白の建物にはバリバリの日本語で「〇〇日本語学校」と書かれていた。たどり着けるか不安だったから大変助かる。
受付でネームタグを受け取り首からかける。私が担当するというクラスまで案内していただき、受付の方は去った。いよいよ始まるのである。手のひらに人という字を3回書き、飲み込む。別に緊張は解けなかった。
ノックをし、スライド式のドアを開けた。一斉に視線が向けられる。ファーストコンタクト。人は第一印象で今後の印象が9割近くも左右されるという。緊張など知ったことか。やらねば。
と、意気込んでいたものの実際は当たり障りのないフツーの自己紹介をしただけである。笑顔と、はっきりしゃべること。それは出来たと思う(当社比)。
クラスは全員で14人。最年少は19歳。最年長は37歳。男女比はちょうど半々くらい。20〜25歳が一番多かった。
いいのか。一ヶ月前に20歳迎えたばかりの私が先生と名乗っても。
とはいえ彼らはそんなことはどうでもよくて。本物の日本人と話したり過ごしたりすることに興味があるようだった。
その日はみんなの自己紹介や質問に答えることが主で終わった。ちなみに一番質問が多かったのはオノマトペについてだった。私たちが普段使う「どんどん」とか「まあまあ」とか(あれ?これオノマトペだっけ?)。どういう意味ですかって聞かれてうまく言葉にできた自信がない。どんどんはどんどんだから。ちなみに私は「ばんばんやってのばんばんと同じ意味だよ」と言った。アホ。
16時に終了のチャイムが鳴る。授業については基本テキストどおりに進むけどカリキュラムは変更可能なので変更の際は在中の先生に相談する。
とりあえず明日はテキストを進める旨を伝えて帰り支度をする。
と、ハンという女子生徒がすすすっと近寄ってきた。ハンは21歳の女の子である。
ハン「先生今日時間ある?」
私「あるよ。どしたん」
ハン「あのね、私たち先生が来たらクラスでご飯行こうって話してたんだ」
なんと。これは嬉しいぞ。まだ見ぬ先生を想像し全員で計画を練っていたなんて。
ぐるりと教室を見渡すと、私の返事を期待する14人の生徒たち。こんなの断るわけがないじゃないか。
私のイエスという返事に挙がる歓声。
初日にしてこの充足感。
いいぞ。ベトナムが好きだ(単純)。
一度解散してから18時に集合ということになった。
仮住まいであるホテルにはハンたち数名がお迎えに来てくれるらしい。
ちなみにベトナムは基本的に18歳が成人。ただしお酒は何歳でも買えるらしい(飲まなければ)。
ということを事前に伝えてきたってことはつまり今から向かうのは居酒屋だな。
ベトナムの居酒屋。未知だ。
期待値8:不安2の割合で時間までゆっくりと過ごした。
当時の生徒たち
・・・
18時。
みんなに連れてきてもらった居酒屋は、車のガレージのような(というかまんま車のガレージ)空間に、半分に切ったドラム缶とお風呂場でよく見る椅子がガレージ内に4つ、歩道に3つほど並ぶ空間であった。
私たちは外の席に通された。
気温はやや蒸し暑いものの風は涼しく快適だ。
注文は分からないので苦手なものを伝えてあとはおまかせした。
すぐに瓶ビールが運ばれてきた。ちなみに一人一本らしい。蓋を開け乾杯。乾杯は万国共通のコミニュケーション。
ハンたちがよく飲むという地ビール。まったく味の想像がつかない。おそるおそるでもなく勢いでグイッと煽った。
なんだこれは。
うまいぞ。
香りはやや独特だけど、すっと喉を通る。のどごし命の方々には物足りないかもしれないが、日本でもこんなに飲みやすいビールはお目にかかったことがない。ビールに興味はあるがビールが苦手という人、ほんとにおすすめです。名前忘れたけど。瓶の色が緑だったことだけは覚えてる。おい。
しばらくして運ばれてくるお食事は、カットフルーツに唐辛子のような独特の香辛料がかかったものだったり、フィッシュアンドチップスのような揚げ物だったり。味に関してはことごとく私の想像と異なった。こういう味だろうと思って食べてもどれもこれも「あれ?」となる。美味しいのだがこのギャップにはしばらく驚かされるだろう。実際最終日まで味には慣れなかった。
すっかりと酔いの回ったクラス一同(私含め)。
時刻は夜の21 時30分。夜はまだまだこれから・・・というわけにはいかない。明日も授業があるからだ。もちろんず〜っと飲んでいたい。楽しい。ベトナム楽しい。でも落ち着け私。なんたって今日は初日である。先生たる私が羽目を外しすぎて翌日授業になりませんでしたなんて洒落にならん。
私は立ち上がった。後ろ髪を引かれる思いとはまさにこのことだろうとこの時強く思った。でも立ち上がった。そして毅然としてこう言った。
「明日も授業だから一旦ここでお開きにしよう。私は帰るけど残る人は楽しんでね。でも明日ちゃんと学校に来るんだよ。お金は私が払うね。いいのいいの、楽しかったから払わせてよ。じゃあまた明日。気をつけて帰るんだよ」
うーん、先生っぽい(今後もこのようなナメてる発言が出るかもしれませんがこの時期の私は20歳のペーペー大学生なので大目に見てやってください)。
実際ベトナムの物価は日本と比べてもかなり安かった。14人と私1人でもお値段およそ10000円いかないくらい。まあ、いいとこ見せたいというのもあって元々払うつもりだったけどね。へへ。
バイバーイ!という生徒たちの声を受けながら私は夜風の中鼻歌を歌いながら上機嫌に自転車を漕ぎ出した。BGMは槇原敬之の不器用な青春時代である。
交通渋滞ももちろんバイクだらけの風景
・・・
自転車なんて持ってきてもいないのに。
中編へ続く
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?