見出し画像

美しさだけに陶酔しないように。

昨日の深夜、なんだかフツフツといろんなことを考えていました。

最近、学校のゼミで冊子の表紙デザインをちょこまかと素人なりに頑張ってやっています。
とにかくプロ意識の高い先生で(学生っぽいアウトプットを許してくれないし妥協させてくれない)何回直しても直してもああでもないこうでもないと言われて、一緒につくるみんなで疲労感たっぷりになりました。

なぜだめなのか?

ただなんとなく良い感じにきれいにまとまってるだけじゃだめなんだというのが腑に落ちました。

「表紙は開放感を表現したいから、海や空を彷彿させる水色・青を基調にし、空と海の写真を選びました。」というと、デザインに説得力が生まれた気がしました。

デザインや表現の世界では当たり前の話かもしれないけどね。これってないがしろにしてしまっては迷走しまくるだけなのでは?と思ったのです。

デザイン・写真・言葉、、、。
全部に意味が必要で、理由の通った論理が必要。


このゼミでの出来事と、以前読んだ雑誌の内容が頭のなかでつながりました。そうです、今日は壮大な気づきのシェアnoteだよ。

以前も紹介した「たたみかた」創刊号の一節。この雑誌、咀嚼するのに時間かかりすぎてじっくり読んだから覚えてることが多すぎるんだよな〜

「言葉の美しさに陶酔しないで、実践としての価値を考える」
ソマリアで支援活動をしている永井陽右さん。

難しい現実に難しいままに立ち向かい、淡々と取り組む人なのだろうと記事から読み取りました。その淡々さが生み出す多くの幸せがあるなら、人のためになるって、すごく幅が広いよね。

私のなかの正義が、感動させることや、人の関心を寄せるようなことばかりになっているような気がしていたので。

表現の世界に足を踏み入れると、美しいもの美しいもの、、、と求めてしまうんだよね。料理でいえば、最後の盛り付けとお皿ばっかり考えて栄養バランスとか美味しさとかをおろそかにしてしまうようなこと。

その表現をして、何がどうなるか、受け手がどう動くか。

考えられていない場面が多すぎて、反省。
たまにこういうほっぺたパシーンと叩かれるようなのが大事。
写真を撮る、ちょっとした言葉を紡ぐことを日常的にやっている私にはとても耳の痛いような、ずしりと来ました。
と同時に、そこに辿り着けてる人がちゃんと顧客を得てプロになってるよなあ〜と思う。


趣味の範囲内であればただきれいなだけでもいいんです、ただ美しいものに陶酔すれば楽しめます。それだけでいいと思うときもあります。
でも、何かの目的(受け手にこう思ってもらいたい、など)がある場合にそれは危険なことだと思いました。

なんとなくしか受け取られないからでしょうか。


行きたいと感じていた、美しさのその先、、、的な遠い場所って、
美しいだけでもなく、人の心が動いて、でもそこに本当の論理的な価値もついているような。それがドカンと集まると良いものが生まれるんだろうか。

だとしたら行きたいなあ〜。

そこへ行くために、陶酔しかけたときに、表現の世界で井の中の蛙になったときに助けてくれる言葉と、日々の出来事がつながる瞬間に出会えたのでした。

さみ





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?