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見えない世界と見える世界の狭間と出会う

「信じなくていいよ!わたし頭おかしいから!」
そう言って彼女は屈託なく笑った。

彼女は私の旧来の友人で、大人になっても会いたいと思う人であるのは、私と見えている世界が異なっているからであろうか。

私は「科学教」の信者である。日本の多くの人は、義務教育を受けているので、科学的根拠や法則性のある研究された結果が好きである。

しかし、一人ひとり個性があり、脳や遺伝子にほんのわずかな違いがあることで見える世界が大きく異なると感じる。
たとえば目を一つとってみても、虹彩の色は大まかに分類するだけで24種類ある。人が得る情報の八割から九割は視覚に由来する話は聞いたことがあるはずだ。

感覚にはヒエラルキーがあり、五つのうちもっとも優れた感覚は視覚などといわれているが、その視覚情報はもちろん目から入る。
虹彩が薄い人は光がまぶしく感じられるし、色の濃い人とは世界が違って見えるだろう。目の色素の薄い外国の方がサングラスを非常によくかけているのは、虹彩の濃い人よりもかなり光がまぶしく感じられるからだ。

また、染色体の関係で男性に多い色弱や色盲という「特定の色が認識できない症状」の世界も色彩感覚に敏感な女性の理解が得られづらいし、おそらくは同じ空間にいても男女間で「見えている世界」は異なっているはずだ。
人間は見たいものしかみない。

そうして感覚というものは個人の体感に由来するために、「そういうもの」として生活に困らなければ、見えている世界が当たり前となる。

最終的に情報を処理するのは脳になる。
脳の電気信号や微量のホルモンが全ての感覚や感情となり、自分の脳が与えられた情報をどう処理するか、また、処理できない情報はどのようになるのだろうかということに興味がわいた。

たとえば、目の仕組み上、網膜にある桿体細胞は光に対する感度が高いけれど、色覚がない。
色覚がある錐体細胞は目の中心に多くあり、外側に行くにしたがって錐体細胞が減ることから、視界の端ぎりぎりの色は「白黒」なのです。
もっと言うと、視神経の位置は盲点となり、見えてない部分があります。
脳は見えない世界を勝手に「想像」して色や情報を補正していることになる。

ランダムに手に取った色鉛筆を視界のぎりぎりに持って、色を当ててみるとより実感できるかもしれません。まっすぐ一点を見つめることで眼球を固定し、視界の端にランダムな色鉛筆を持っていくと「緑」に見えたが「ピンク」だったという体験が得られるかもしれません。

見える世界は人によって千差万別である。
それはスピリチュアルの世界を私が理解するのに役立っている。
「霊」や「魂」、「前世」や「神」、「精霊」と呼ばれるものをみたことがないけれど、私の脳が「見えない」と認識しているだけで、「見える」人の脳では確実に見えている。

ただ、これはマイノリティな世界であり、その世界をマジョリティ側に伝えるのは勇気がいることです。
そして自分がみえている世界に希少性があるという事に気がつき、それを具体的に伝える術をもてば価値となります。


果たしてわたしが今見ている世界は、本当に存在しているのだろうか?
本当はそこらじゅうに有るものを、脳が消しているのだろうか?

脳が感じればその世界が生まれるのならば、脳が感じなければ世界は無くなるのだろうか?

結局私は、脳という機能が好きなのだと思う。

見えない何かを証明するのはとても難しい。
脳も、みえないから面白い。
それが個人の感覚に頼るものであればなおさらである。

ただ存在し、考えて、共有できる人がいる。
その幸せを感じた一日だった。

あなたとわたしは今日も違う同じ世界をみていて素敵だな。

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