神にみる自由行動と結婚活動

結婚は契約であり、契約がないとヒトは関係性を続けることが出来ない。

神を失くした結婚

「いただきます」が教えてくれる。

日本人以外の77億人は、食事を神に感謝することはあっても、食材そのものの命に感謝を述べる文化は持っていない。

地球規模でみると圧倒的にマイノリティーな一言であるし、この一言を言ったところで別段食事の味が変わることもない。

「いただきます」は、別に言っても言わなくてもいい一言であると同時に宗教的でもある。
"命を頂くことで自分の命を繋ぐ"という信仰を行動で表す祈りであり、供養である。

そして「文化」でもある。
文化とは、人間が社会の構成員として獲得する振る舞いのことであるから、文化が違えば住んでいる社会が違うこととなり、考え方も振る舞いも異なるといえる。
「いただきます」を通して繋がる同じ文化の人間は、仲間意識が芽生え打ち解けやすい。
だから、学校は「いただきます」を唱えて、日本という社会を構成する。

いただきますは文化と宗教である。

しかし私は宗教と聞くと、なぜだか嫌悪感を覚える。
毎年初詣に行って神社で神にお賽銭を投げて祈り、わざわざお寺に墓を建てて参って祈り、こどもの七五三や厄払いでもらったお札を簡易的な神棚に飾って、クリスマスやバレンタインを祝っているにも関わらず、
「なんの宗教をしているか?」
という問いには嫌悪感を覚え、
「べつに何もしていないし、する気もない」と答える。

こんなにも祈っているにも関わらず、私は何も信仰していないと認識しているのである。

これはいったいどういうことであろうか?

ご飯を食べるときには、そこに食材という神がいる。
一粒のお米には7人の神様がいるとするならば、お茶碗1杯3000粒の米に21000人の神が宿る文化。
やおよろず過ぎてよくわからない宗教が混沌としている。
自由すぎるだろ。
キリスト教のようなわかりやすい聖書も無ければ、仏教のような戒律もない、イスラム教のように決まった時間に毎日同じ方角に祈ることもしない。

ただ、興味があるがままに生きる自由を与えられている。
祈りたい人は勝手に祈ればいい自由。
だからどんな神に祈ってもいいし、祈る内容は、大抵は健康、お金、恋愛である。

ところで、家族という集団の中でいただきますを言う人も、1人の外食で「いただきます」と言うは人はどれくらいいるのであろうか?
文化とは無形であるがゆえに、同じ思想の継承が脈々と必要である。
同じ神を崇める人の集団が文化と心を作っているのであれば、1人では成り立たない。
小規模な集団が同じ行為をすると結束力が増すから、いただきますを教えて実践することは、家族という認識を強化させる。
これは別段いただきますに限らず、家族独自の方法でも良い。
例えば「行ってらっしゃい」も祈りであり、「ただいま」が祈りに対する返答である。
1人暮しが虚空に向かって「ただいま」を言うことが寂しいのも、祈られていないからである。

そのため大人が1人でレストランに入った場合、いただきますを言う必要性が薄れる。
祈りの文化を継承させる人がそばに居ないためである。

崇める、祈るという行為は、生産的ではない。
祈ったから恵みの雨が降ったのではないし、雨ごいを成功させた要因は雨が降るまで祈り続けるという行動だ。
祈れば叶うということは、非科学的であると同時に、非生産的であるがゆえ、科学技術を発展させることに成功し、飢えが減り、人口を増やした社会では祈る必要性が減った。
そして祈りが強制ではない自由な社会は、合理的なものに自然淘汰されていく。

就活性が、皆同じ服を着て、皆同じ髪型をするのは合理的な「自由」の行き着く先である。
水泳の自由型はクロールとなることも、競走に勝つためには1番合理的な泳ぎ方を皆することになり、ほかの泳ぎ方が淘汰された結果である。
ヒトが二足歩行しているのも自由だったからだ。

しかし、不自由であることは魅力的な文化の形成に不可欠である。
イスラム教圏、キリスト教圏、仏教圏。
「縛り」が社会を育み、文化を形成し、子孫を繁栄させている。

しかし神のいない自由の行き着く先は、「結婚の理想」を叶えることができる人の子孫の繁栄である。
人気が集中する個体と、そうでない個体に分かれる。
熾烈な争いが、判を押したような人々を形成する。
モテる金型に当てはまった人が子孫を残していく。

結婚をすることや生活を継続すること自体も自由である現代社会は、いかに自己の宗教を相手に普及させることができるかが鍵である。
その宗教で相手を搾取するための教祖となってしまってはお互いが不幸となる。相手を"幸せ"にさせることを目的としなくてはならない。行動と言葉がけとオーラで布教活動をするのだ。

神に誓う

日本人は神に頼み事は出来るが、誓えるだろうか?

それは、教会や神前で「神に誓って」結婚している日本人の、およそ3人に1人が離婚していることからも読み解くことができ、18歳の私は絶望した。

現代社会における誓いなど無意味だ。
今は中世ではない。
あるのは利害関係だけある。
「どんなに好きであっても、それは脳が一時的に分泌物を発生させているだけに過ぎない」という事実が科学の結果として現れている。

時間の流れにおける他人の感情の変化が私は怖かった。
本心では、好きな人はずっと私を好きでいてくれたら嬉しいと思うし、それが幸せだと信じている。
シンデレラみたいに見初められ、愛されて、めでたしめでたしとはいかないことが、頻発する芸能人の不倫報道と、それを叩く人々によって垣間見れる。

「人間の価値」とは、「人間を物」として扱っている考え方であるが、資本主義社会というものは「人間の労働力」を物として売買できるから成り立っており、その社会の住民である日本は、いつしか「神」を信じるよりも「実利」を信じる人がマジョリティーとなっている。
神という「心」を信じるよりも、優先される社会構造がある。
当時は日本政府が労働改革を行っており、多くの派遣社員や非正規雇用が生まれ、人を人として扱うことを辞めた先の心情を、インターネットを通じて幼い私は感じ取った。

実利主義。
「女の価値は年齢で、男の価値は収入」
匿名の掲示板には2000年当時の人々の赤裸々な本音が刻まれる。
ネット情報はネガティブバイアスがかかってしまうことを知らずに、10歳の私は毎日震えていた。
さらにたいていのヒトは大体「同じ」であるならば、恋愛結婚では結婚しづらい。
なぜならば、わたしの替わりがいくらでもいる世界だからだ。

「ヒトが過剰にいる世界に、どうしたら私が新たにヒトを生み出しても困らないか?」
そんなことを当時の私は考えて過ごした。

この先の文章は私の個人情報が含まれるので有料にした。
物好きで暇人しか買わなくていいよ。

神は鏡である。
これは前回有料で書いたが、神社に祀られているものは鏡である。

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