プロ奢ラレヤーさんから学ぶ。わたしを型にはめるとはなにか。
先日、プロ奢ラレヤーさんに奢ってきた。
彼のTwitter上に「おごりたいやつ今日DMしろ」と流れ、実際にDMして返信が来ると奢ることができる。
今日とか明日という時間軸で、2万円と食事代で会ってお話をきいてくれる。行動に移しやすいシステムである。
彼は私に「だいたい13時半くらい」と指定して都内で待ち合わせをし、「10分くらい遅れる。」と返信があった。
待っている間、プロ奢ラレヤーさんのnoteの記事がちょうど更新された。
「苦悩について」
彼は「苦悩を語れ」という視聴者参加型の配信を定期的に開催している。
私もそれに参加する方法で接触を図れたにもかかわらず、なぜかできなかった。
なぜ、頻繁に行われる配信に参加できなかったのであろうか?
それは「苦難」はあるが「苦悩」がないからであると気付かされた。
そして、それが苦悩であったのだ。
「"わたしの苦難を聴いて欲しいけど苦悩専門配信のプロ奢さんは聴いてくれない"という苦悩」を、知らず知らずのうちに持ってしまっていたのである。
だから苦悩を解消するために居てもたってもいられずに私は行動に移してしまったのである。
配信をみて、今日の「答え」を会う直前に教えてもらう形となってしまった。
私は彼に会って、私の意味不明な苦難の話を聴いて笑ってほしかったのであると確信した時、外にいるのに涙が出そうになって慌ててiPhoneをスワイプした。
10分くらい遅れるとDMが来たが、20分たっても現れない。
浮浪者である彼は、突然私と会うのが嫌になっちゃったかな?と思った。
しかし彼が謎の写真を撮るためにしゃがんでいたところを私が発見して声をかけた。
みなれた帽子と、青い甚平、下駄、ひょうたん。
プロ奢ラレヤーさんが本当に来たという驚きと安心感が私を包んだ。
「おなかの空き具合、どう?」
私は地理的に店に無知であるために、お任せをした。
お店は別にどこでもいい。彼が食べたいものを食べればいい。
今回の私の目的は、「わたし」を発見することである。
プロ奢ラレヤーさんがペンギンが好きらしいことは知っていた。
サンシャインシティにいる空飛ぶペンギンの話に対して、ヒョウモンオトメエイを推した。ヒョウ柄の乙女なエイである。海のギャルが私は好きである。
雨音との出会い
テレビもSNSもやらない私がプロ奢ラレヤーさんを知ったのは今年に入ってからである。
「お前の苦悩を語れ」という切り口の面白さと、そこに集う多様性、浮浪者を自称する彼がnoteに書く文章が切なくもあり美しく、核心をつくので私はときどき涙した。
純粋で狡猾、頭がいいからバカをやれる。
そんなプロ奢ラレヤーさんの印象とともにファンになった。
私は学生時代にクラスの中で叫ぶ人であったが、大人になると同時にその行為は終了した。
しかし、その時の感情がプロ奢ラレヤーさんの文章で呼び起こされる。
この人は、すごく叫んでる人だ。
そう思った。
そしてその叫び声が、時たま雨に聞こえる。
私は同じ雨音を、明石家さんまさんや西原理恵子さんから聴いたことがある。だから、この二方に触れたときに涙が流れるし、ファンでもある。
「何している人だっけ?」
「弁護士の専従者です。」
青いツイードのワンピースに身を包んだ私に向かって、プロ奢ラレヤーさんは焼き肉屋の前で立ち止まり、「ここは?」と尋ねた。
自分とは
朝飲んだコーヒーが胃の形に収まるように、多くの人々は共通認識どおりに自分の行動をしていく。
人々が思い描く共通認識というブランドは面白い。
たとえば100万円のエルメスのバーキンには何を感じるだろうか。
ナイキの運動靴と、ルブタンのヒールでは?
自分の名前。
肩書き。
卒業した学校。
性別。
家の番地や歩く歩道にいたるまで、すべてがブランドであり、私を構成し、「わたし」を作り上げているのである。
そうしてそれらは私自身に選択の余地があり、「わたし」を私が作り上げることが可能であるとしている。
しかし、型にはまらない生き方を自由と呼ぶなら「わたし」を生きなければならない。
私が「わたし」として自由に生きるためには、自分のことをよく知ることが必要であり、自分を知るためには多くの経験と知識、向き合う時間が必要で、問い続けることをしなくてはならない。
そして、一目でわかってもらえるために周知活動が必要である。
思想と行動、外見が一致していると、それはブランドとなり、「わたし」を生きることができるのである。
私は「わたし」となぜ認識できるのであろうか。
ヒトは昨日食べたもので出来ている。そうして自分の中の古いものを追い出し、新しいものを取り入れる作業を繰り返している。
消化管は2〜3日で入れ替わり、筋肉は2週間ぐらいで新しくなる。
朝飲んだコーヒーが私の一部になっている。
だから昨日の私と今日の私は違うもので出来ているはずだけれど、私は、指の先まで私であるといえるのはなぜだろうか?
昨日の海鮮丼を腸に含んだ私は私であるが、トイレで排出した瞬間に、腸にあった私は私ではなくなったものになる。
ヒトのフンは3分の1が食べカスで、3分の1が腸内細菌、3分の1がはがれた腸粘膜という構成だ。それは外部から取り入れた純粋に私ではないものと、内部の私だったもので構成されているはずだが、身体からほんの少しでも切り離された瞬間に、私は「わたし」ではなくなるのだ。
それは糞でなくとも、たとえば爪、髪の毛、皮膚の垢。
人が魂と呼ぶ"何か"も例外ではない。
けれども切り離さずに私と接しているものはすべて、「わたし」と同化する。
服を着た私は、服まで「わたし」であるし、車を運転していたら、車は「わたし」であるのだ。
剣を持っていたら、剣の先端まで「わたし」になるから、切っ先を相手の鼻先ぎりぎりで止めることも容易となる。
意識の無意識な同化。
これはすべてのことに言えるとても大切なことだから、自分への戒めとして今日、文字に起こしている。
ヒトは、自分でないものを自分とすることができるのである。
そしてそれは自分の人生や生き方に大きく影響している。
私は「わたし」を失くしてしまった経験をしている。
親が変わり、友人が変わる。
家が変わる。
苗字が変わる。
「わたし」ではなくなったとき、「わたし」というブランドの立ち上げと周知活動が新たに必要で、新しいわたしとなる瞬間でもある。
ブランドの転換期はなぜだかお祝いしてもらえる。
誕生日、進学祝い、結婚祝い
それら全ては新規ブランド立ち上げ祝いなのではないか。
「女子学生」というブランドから「20歳」というブランドとなる。
「●●さんの妻」というブランドで、「黒髪ロングストレートヘアー」というブランドである。
周知されたブランドというものは、とても楽である。
「自分はこういうものである」ということが、瞬時に理解してもらえるために、相手の理解にかかる時間を減らすことができる。
相手の貴重な時間を取らせないために、「型にはまった人」の方が好感度は高い。
ただ、だから本当の私を誰も理解することはできない。
周知された認識通りに行動をするからだ。
それでいいのである。
型にはまるのはとても生きやすい方法である。
そして、周知されてない自分をブランド化するのは大変だが、確立すれば唯一無二となる。
「なりたいものになれる自由」がある世界。
私が彼から学んだことである。
プロ奢ラレヤーさんは、「プロ奢ラレヤー」さんであった。
そしてわたしは「弁護士の専従者」である。
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