不便と身体性

最近わけあって二槽式洗濯機を使うことがある。二槽式洗濯機は一つ前の時代の代物というイメージだったし、日本での使用率の低さをみればそれは間違いとは言えないだろう。しかし使っていくうちに、私は二槽式洗濯機が意外と好きになった。

二槽式洗濯機は洗濯槽と脱水槽が別になっていて、途中でわざわざ洗濯物を脱水槽に移さないといけない仕組みだ。言うまでもなく、全自動洗濯機ならこの作業はいらない。全自動洗濯機のほうが便利と考える派閥のほうが多いだろう。全自動洗濯機であれば、乾燥機能までついている。一度洗濯物を入れたら、あとはおまかせ。私の身体はもういらない。

二槽式洗濯機を使っていると、不便さは生きている実感をもたらしてくれると感じるようになった。洗剤を入れて、蛇口をひねって水を入れ泡立て、濡れた重い洗濯物を脱水槽へ移し、脱水の終わって軽くなった洗濯物をハンガーにかけ、物干し竿にひっかけていく。乾いたら取り込む。二槽式洗濯機は全自動に比べて、私の身体の介入を必要とする。濡れた服や乾いた服、洗濯槽から跳ねてくる細かなしぶき、洗濯槽の回る水流、そういうもの感じると、世界と私は繋がっている感覚が強く引き起こされる。

スマホをだらだらと触り続ける事に生きている心地がしないのも、これと関係があるように思う。スマホは視覚と触覚に単調な刺激をもたらすだけで、この刺激には慣れるし飽きる。インターネットにはいろいろなものがあるように見えるが、リアルの刺激には、強さでもバリエーションでも勝てないように感じる。趣味だって体を刺激するためにあると思う。例えばサッカーは、戦場で切り落とした敵の頭部を蹴るのが起源だと聞いたことがある。その当時は敵の頭を蹴ることで、勝った実感を得たり、敵を懲らしめる目的を果たすことができたのだろう。しかし今サッカーは、人の頭ではなくボールを蹴る。ボールを蹴らなくたっても、今では機械でボールを動かせる。ボールを懲らしめるわけでなくとも、サッカーを楽しいと思う人が一定数いる。それは彼もしくは彼女の五感の心地いいところを、サッカーがちょうど刺激できるからだ。あらゆる趣味は、身体を気持ちよく刺激するために発生するんだと思う。

便利か否かという判断基準だけだと、生きている心地は弱くなるし、楽しいことを求めるなら、むしろ便利さは捨てていくのがいいんだと思った。

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